苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨハネ福音書冒頭

 今、ヨハネ福音書に関する本を順々に読んでいます。2年後くらいからヨハネ福音書の連続説教をしたいと思って準備しているんです。それで、小林稔さんというローマ教会の司祭の『ヨハネ福音書のイエス』というのを読んでいます。聖書協会共同訳で「はじめにことばがいた」と訳した、その人です。
 このこと、以前にも話題にしましたね。私が書いたことは、「いる」は生命あるものにもちい、「ある」は非生物にもちいることばだから、ロゴスは「あった」より「いた」の方がよいかも、ということです。しかし、本書を読んでみたら、小林さんが「いた」と訳した意図は、もっと違っていました。小林さんは、そもそも「はじめにことばがいた。ことばは神とともにいた。」というくだりは、世界創造の前に、父と子がいたということを意味するのではなく、ヨハネたち弟子たちがこの世でイエスに出会った時のことを言っているのだと主張するのです。
 しかし、これはどう見ても無理筋解釈でしょう。旧約聖書の伝統を持つイスラエルも含めて、すでにヘレニズム文化圏にのみこまれて久しい地中海世界の人たちが「エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス(はじめに、ことばがあった)」と聞かされたら、すぐにアルケー(根源)ということば、そしてロゴスということばに、世界のはじめを意識しないではいられなかったはずだからです。七十人訳ギリシャ旧約聖書になじんでいたユダヤ人たちは創世記1章や箴言8章を思い出したでしょうし、それを知らぬギリシャ文化のみを背景とする人たちは物事の根源(アルケー)を探求した自然哲学者やストア派のいうロゴスを思い出したでしょう。ヨハネがそんな読者たちを無視して、自分がイエス様にであった「はじめ」を書くなどということはありえません。

聖書人名とダジャレ

 聖書に登場する人名と行動を見ていると、あ、これはダジャレではなかろうか、と思ったりする箇所がある。
 イスラエルの民が城壁を建てようとしているのに、それを妨害する総督の名前タテナイ。ペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちが諸外国のことばで福音を語り始めたとき、周囲の人々は「こいつらは昼間から酔えるやつらだ」と言ったのに対して、ペテロは「そうではありません。これは預言者ヨエルの預言の成就です。」と応じたとか。
 それから、ダビデがサウル王の妬みを買って殺されそうになり、いのちからがら神の幕屋に逃げて、下げてきたパンを祭司アヒメレクからもらったとき、この祭司アヒメレクのことをサウル王に讒言した男がいた。このめっちゃえぐい男の名はドエグ。
 北海道以外のみなさん。すこし涼しくなりましたか?

被造世界は時間性を帯びている

 主のいやしの奇跡について、最近気が付いたこと。主イエスは聾唖者に「エパタ」と権威あることばをかけることによって欠損していた聴覚神経を瞬時に創造することによって癒しを与えたことがありました。しかし、もっと驚くべきことがあります。聾唖者の癒しの場合には、もし彼が健常者だったなら幼児期から数十年をかけて獲得したはずの語彙や文法などの言語能力をも瞬時にお与えになったことです。そうでなければ、彼はただちに会話することはできなかったでしょう。彼はあたかも数十年間かけて語彙や文法や発声など身に着けてきたかのように、いきなり言葉を話し始めたわけです。ということは、主の創造的癒しは時間性を帯びているということです。

 同じように、神がアダム夫婦を造られたとき、彼らは受精卵でも乳児でもなく、二十年程度の時間性をおびた成人の姿をしたものとして造られました。そこにあった木々も、ほかの動物たちも、山も川も海も、そして夜になれば空にまたたく星の光も、時間性を帯びたものとして創造されました。被造世界は時間性を帯びているものであって、そうでなければ全体として機能しないのです。

 この世界の出現の仕方についてどうすれば正しく認識できるかについて、聖書は次のように言います。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(へブル11章3節)

「はじめに、ことばがおられた」

 岩波版新約聖書ヨハネ福音書1章1節を小林稔氏は「はじめに、ことばがいた」と訳した。これに対してはずいぶんと批判もあったそうである。小林氏の意図するところは、ことば(ロゴス)が単なるストア哲学がいうような原理といったモノでなく、生命ある人格であるということを表現したかったからであろう。

 英語でいえばbe動詞で同じなのだが、日本語では存在を表現する動詞は、物のばあいはたとえば「ある」と表現し、生命ある存在の場合は「いる」と表現する。だが、日本語の「いる」は、生命あるものであれば、犬でも猫でも人でも「いる」と言えてしまうから問題が生じる。山田晶先生(勝手に私淑しているので先生とよばせていただく)は、「『いた』というとどっかの檻の中にいたみたいだ」と批判したのはこの点である。

 しかし、小林氏はなんとかして、ヨハネ福音書1章が教えようとしている神のロゴスの特異さを表現したかったわけである。ヘレニズム世界においてロゴスといえば、非人格的な世界の構成原理を意味していた。しかし、ヨハネ福音書が告げるロゴスは、非人格的な原理でなく、生命があり、かつ、父なる神の懐に抱かれた最愛の御子でいらっしゃり、かつ、人となってわれわれの間に住まわれたお方である。だから、「あった」ではなく、「いた」という訳語を選んだのであろう。

 では、どう訳せばよかったのだろう。永遠のはじめから、父と愛の交わりのうちに生きておられ、人となって世に来られたお方であれば、「いらした」あるいは「おられた」というのが日本語として普通であろう。探してみたら、塚本虎二がちゃんとそのように訳している。

(世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。

   さらに日本語のむずかしい「は」と「が」の問題がある。「ことばがおられた」と訳すのか「ことばはおられた」と訳すのか。「は」と「が」の使い分けはこれまたむずかしいけれど、今回は書かない。