苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ウォッチマン・ニーの本

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 ウォッチマン・ニー『キリスト者の標準』、『霊の解放』、『アブラハム、イサク、ヤコブの神』など。
 むかし、宮村先生から「全集主義」ということばを教わりました。ある著述家の思想を理解しようと思うなら、その人の著作のすべてを読むということです。著者の思想全体の文脈の中で、一つの作品、一つの章句の意義はあきらかになるということでしょう。そんなわけで、ウォッチマン・ニーもほぼ全部読んでみました。中国人のたましいで聖書を読んだというのか、その表現も独特なのですが、なんというかリアリティがあるんですよ。聖書解釈の仕方は時に寓喩的で危ういなあというところが時に見られますが、ま、セーフ。しかし、この人と同じ系統のウィトネス・リーの書いたものは行き過ぎアウトという感想です。アウトの場合は、一冊で十分です。
 『キリスト者の標準』はいのちのことば社から出版されたこともあって、多くの人に読まれていると思います。ローマ書1章から8章の把握の仕方について、多くを教えられます。
 『霊の解放』は、人間を三分するならば、霊が「内なる人」、「魂・からだ」が「外なる人」であるという指摘には、なるほどと目が開かれました。「外なる人」知性の誇り、感性の誇り、行動力の誇り、肉体的誇りが砕かれてこそ聖霊が解放される、と。
 『アブラハム、イサク、ヤコブの神』は、大学時代の聖書研究会である先輩に紹介されましたが、ピンときませんでした。ですが、数年後、現場に出て3年目にストレスから下血、入院のときに、ベッドで思い起こしました。ヤコブが最も強いもものつがいを打たれたように、神の人は最も強い所を打たれて自信を失わなければ、神の人として役には立てないのだということです。ひとたび神に最も強い所を打たれると、彼は何をしても自信がなくなり、いつも神にみこころを尋ねて生きるようになります。
 また、これと通じることですが、善悪を論じることは世の人がしていることであり、神の人は十字架を負って主について行けばよいのだということを教わりました。