苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ルター卵の白身嫌い説  HBIクリスマス会

 昨晩は、妻と北海道聖書学院のクリスマス会に行ってきました。昨年は大雪で難渋しましたが、今年はまったく雪がありません。こんな冬は、道産子の人たちに聞いてみると「生まれて初めて」だそうです。
 クリスマス会は学院の食堂で学生たちがすべて準備してくれて行われました。このやり方が、「伝統」のようです。賛美の時、食事の時、出し物の時というプログラム。珍しいことはないのですが、ともにキリストを愛する者たちの集いは、なんとも言えず楽しい者でした。妻は、昨年、このクリスマス会に出てから、楽しみになったようです。
 テーブルの話題の中で、どういわけか生卵の話になり、「卵の白身は気持ち悪いという記述がヨブ記にありました」というと、そんなみことばあったっけと盛り上がりました。
 ありますよ。ヨブ記6章、6,7節
「味のない物は塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。
私の喉はそれを受けつけない。それらは私には腐った食物のようだ。」

 私は小さいころからヌルッとした卵の白身が苦手なんですが、ヨブ記でこの一節を見出したとき、義人ヨブも仲間だったんだと意を強くした次第です。

 ところが、今しがたこの「卵の白身」と訳されたことばを調べてみると、英訳聖書には「the sap of the mallow(アオイの樹液)」と訳しているものもあります。もちろん卵の白身という訳もあるのですが。卵、アオイと訳されたことばは「ハルラムート」といいますが、聖書の中に1回しか用例がないとのこと。やっぱりよくわからないんですね。ヨブ記ほど古い書物となると、よくわからんことばがあるわけです。ハルラムートはスベリヒユのことだろうとストロングの辞書にはあります。ますますわからない。スベリヒユ山形県でふつうに食べるものですが。それにしても「卵の白身」という多くの翻訳聖書が採用している訳語は誰から始まったのでしょう。ウルガタではありません。ウルガタには「食べたら死ぬようなもの」となっています。英国欽定訳聖書KJVではすでに卵の白身となっています。

 私のように、卵の白身が苦手な聖書翻訳者が、苦し紛れに「卵の白身」と訳したのかもしれませんねえ。KJVが参照したルター訳を見ると、すでに「卵の白身」となっています。カトリックではウルガタでしたから、ここはルターが「塩気のなくて食べにくい食べ物ってなんだろうな?・・・あ、卵の白身だ。あれは許せん!」とか思いついて、こんなふうに訳したんかなあ。カルヴァンならやりそうもないけれど、ルターならなんとなく可能性があるんじゃないかと思えるところが面白い。宗教改革について、エラスムスが卵を産み、ルターがそれをかえしたとよくいうけれど、彼が卵の白身が嫌いだったとしたら、なんだかおもしろい。