苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

司法的律法

「6**,訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。7**,偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。**8**,賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」出エジプト233:6‐8

 このところ夕礼拝で律法を味わっていて興味深い。モーセ五書の中に記されているさまざまな律法は、普通その内容から、道徳律法、司法的律法、祭儀律法に分類される。道徳律法は十戒で時代を超えて通用する。祭儀律法は罪の償いや献身や神との交わりを意味するさまざまな定めを意味するが、これらは主イエス・キリストにあって成就されたので、新約の時代には廃止された。司法的律法は、古代イスラエルにおけるさまざまの法律であるから、そのまま私たちの住む21世紀の日本に直接適用すべきものではない。

 けれども、司法的律法を学ぶと、神の倫理的価値観がどのようなものであるかを知ることができる。上掲の箇所では、裁判を曲げてしまうのは、賄賂であると断定されている。現代日本で現役裁判官があからさまに賄賂を取ることはありえまい。しかし、合法的賄賂がある。それは出世と天下りである。政府や大銀行・大企業を被告とした裁判を起こしても裁判ではほぼ勝ち目がないのだそうである。裁判官の人事権は最高裁が握っており、最高裁判事の人事権は政府が握っているからである。政府を有罪とする判決を出した裁判官は出世コースから外されてしまう。また、裁判官にとって退官後の花道は大銀行・大企業の顧問弁護士だそうである。それで裁判官たちは、裁判で、大銀行・大企業に貸しを作っておくという。

 したがって、正しい裁判が行われるためには、この二つの「合法的賄賂」というべきものを非合法化する必要がある。