苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ジェームズ・ダン『パウロ神学』を読み始めました

 先週半ば油断して風邪をひいてしまい、治ったかなと思ったら、なかなかすっきり治りません。熱が出ないので、おとなしくしていないから治らないのかもしれません。そこで、昨日は、家にいておとなしくジェームズ・ダン『パウロ神学』を読み始めました。

 ダンは、サンダースやライトとともに、いわゆるNPP(パウロ理解の新視点)の一人と言われる学者ですが、良い意味でかなり様子がちがうなという印象です。NPPというのは、パウロはもともとユダヤ教の教師だったのだから、1世紀のユダヤ教の観点からパウロが書いたものを理解しようという方法論に立つ学者たちのことです。サンダースやライトは、それぞれ自分の主張が強すぎて、聖書が言っていることを素直に正しく読み取れていないというところを見受けます。たとえばサンダースのユダヤ教徒理解はブルトマンに反対をしすぎて反対の極端に走って、福音書が述べる多様なユダヤ教徒ありさまが見えなくなっていますし、ローマ書が6-8章こそパウロ神学の核心だという主張が強すぎて、その観点から3章を読み込んで読み間違えています。また、ライトには、このブログで「ライト玉石混淆」に書いたような疑問があります(「玉石混淆」と検索してください)。自己主張が強すぎる読み方をする学者の説は、その箇所はそう読めても、ほかの箇所とは矛盾することが必ず出てきます。そういう学者は自説にとって都合の悪い箇所は無視するか、むにゃむにゃ屁理屈をいうか、その聖書箇所は真正の聖書テキストではないなどとまで強弁してしまうものです。けれども、ダンは、まだ25章中、5章までしか読んでいませんから断言はできませんが、奇をてらったところがなく、堅実にパウロを読んでいますし、むにゃむにゃ屁理屈をいうこともなく、合理主義に染まって啓示を否定するわけでもないので、信用できそうだなあという良い印象を受けています。この先どうなるかは、まだわかりませんが。

 5章までのダンの記述で一点だけ気になることを挙げておけば、「真正パウロ書簡」という表現です。この表現は、たとえばテモテ・テトス書簡などはパウロの真筆ではないという理解を意味することばです。それは「パウロの時代に、これらの書簡に記されているような教会組織が整えられていたはずがない」という予見に基づく仮説にすぎませんが、リベラルな聖書学では「定説」扱いとなっています。しかし、実際にはたいした根拠はありません。そういう疑問は少々あるとしても、基本的にダンの本は信用できますから、読み進めて行くのが楽しみです。

 900頁もある高価な本ですが、この碩学の長年にわたる堅実な研究を、英国まで留学せずとも日本語で読めるのですから、パウロ書簡から説教をする者にとっては高くないでしょう。一度読み通したあと、索引などを活用して、何度でも参照する一生ものの一冊です。