苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

吉持章先生召天

 吉持章先生が今朝、召天されたとの知らせを受けました。奥様、ご遺族に主の慰めを祈ります。
 振り返れば、吉持先生には人生の節目節目でお世話になって来ました。私が初めて先生にお目にかかったのは、大学生のとき、土浦めぐみ教会のメンバーだったときのことです。当時、土浦めぐみ教会の牧師は朝岡茂先生で、吉持先生のJCCの少し後輩なのだとうかがいました。同盟教団では理事会の同僚という関係で、親友で良きライバルというふうな関係でいらして、一緒に旅行に出かけた話を「弥次喜多珍道中だったよ」と先生が楽しげに話していらっしゃいました。朝岡先生は身長180センチほどの長身で、吉持先生は小柄でしたから凸凹コンビだったのです。たぶん私が大学三年生の秋の特別伝道会の講師として吉持先生がいらっしゃって、初めてメッセージをうかがいました。心に残っているのはニコデモの話とサマリヤの女の話、そしてザアカイの話からの伝道説教です。
 私は大学卒業後、すぐに東京基督神学校に進み、三年間の学びを終えました。実は、最終学年の12月、朝岡茂先生は膵臓癌で天に凱旋して行かれました。私は神学校一年生の秋に、神戸の父を天に送り、今度は霊的な父であった朝岡先生を天に送ったことになります。そんななかで、同盟キリスト教団の補教師の受験をしました。最終面接は天城山荘の教団総会のときに行われました。面接のとき、居並ぶ理事の中で吉持先生がギロリとあの大きな目を開いて、私に質問をされました。「水草さんは、どうして同盟教団に骨を埋める覚悟をしたのかね?」これは私の推測ですけれども、先生は親友の朝岡牧師の遺していった献身者として私を見ておられ、気にとめていてくださったのであろうと思います。そして、私がもともと改革長老教会の出身者で、大学時代に同盟教団の土浦めぐみ教会に移籍したことを御存じだったのでしょう。また私が神学に関心をもっていて、青臭い生意気さが朝岡茂先生の逆鱗に触れたこともきっと御存じで、少々心配しておられたのだろうと思います。そこで、同盟教団に腰かけのつもりで入ったわけではあるまいな、という意味でぐさりと釘を刺されたのでしょう。私は「はい。私は視野の狭い人間なので、同盟教団のいろいろな先生方から多くのことを学びたいと思ったからです。」とお答えしたと記憶しています。
 補教師となり、練馬区でジェイコブセン宣教師とともに教会に仕えていた秋、そろそろ自分も身を固めなければならないなと考えるようになりました。そんなとき、十一月の下旬、ふと私の脳裏に春の教団総会で私の前をおじきをして右から左にかけぬけた山吹色のカーディガンを着た女性伝道師が浮かびました。しかし、風の便りに彼女には縁談が進んでいると聞いていたので、『みこころであれば、その縁談はなくなるだろう。祈って待とう。』と考えて、二か月ほど祈りつつ新年を迎えます。一月の半ばのある日、吉持先生からお電話がありました。
吉持「水草先生。結婚を予定している女性はいますか。」
私「いいえ。おりません。」
吉持「実は、浜松で伝道師をしているN姉に縁談を勧るのだが、うんと言わないのだよ。それで、誰か祈っている意中の人がいるのか?と聞いてみたら、水草先生のことを祈っているということなんだよ。」とおっしゃって、N伝道師がどれほど心配りができるすばらしい女性であるかということを電話の向こうで懇懇と話されました。そこで、私は、「実は、私も昨年11月からN姉のことを覚えて祈ってきました。」とお答えしました。すると先生は「それでは、この結婚はみこころでしょう。二人でどこかで会って決めなさい。」とおっしゃいます。数日後、私たちは会ってその場で結婚を決め、3月に茨木聖書教会で婚約式、11月3日に結婚しました。結婚式の説教は吉持章先生です。婚約式の日、先生は私たち夫婦に、「いたずら書きです」とおっしゃって、私たちの名を織り込んだ歌を書いてくださいました。

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 練馬での伝道者として三年目のお正月、宣教師の移動と私のいたらぬ牧会と教会の教団加盟と財政問題にかんする混乱の中、私はストレスで十二指腸から出血して緊急入院しました。赤血球値が正常の三分の一とかいうことで、貧血で昏倒したのです。全国の教会の兄弟姉妹に祈っていただいたおかげで、その出血部位は一夜にしていやされて、医者が不思議そうに首をかしげていましたが、一週間後に退院となりました。そして三月に、やはり天城山荘で正教師按手の教団総会となりました。最終面接に、またも吉持章先生が正面に座られました。先生は朝岡茂に育てられた、この生意気な若い伝道者は大丈夫なのかというお顔をしていらっしゃいました。按手礼で私の頭に手を置いて大きな声で祈ってくださったのは、吉持章先生です。
 宣教師御夫妻は千葉に移動され、その後私たち夫婦で教会に仕えてあわせて9年目の夏、三十代半ばになっていた私は、神学生時代からずっと祈ってきていた「葦原の志」つまり日本の田舎の教会がない地に教会開拓をするために立つことを決心をし、妻に告げました。妻は「従います」と答えてくれました。そのためにまず説得しなければならないのは、理事会と当時理事長をしておられた吉持章先生でした。私は理事会に自分の志を書いた手紙を出し、妻と小さな長男をつれて、千葉の吉持先生宅をお訪ねして、その志をお話ししました。先生は、「福音の届いていない僻地への伝道は誰かがやらなければならないと思っています。自分も年をとったら、そのような地に立つつもりです。水草先生が、その召しを受けたと確信があるならば、立てばよい。」とおっしゃり、磨き上げたひょうたんに筆でさらさらとイザヤ書のみことばを書いてくださいました。

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 その翌年春、私たちは練馬を離れて信州南佐久郡で開拓伝道を始めました。主は生きておられて、その地にも神の選びの民を用意していて下さったことは、数日前に書いたとおりです。九年目、小海町見晴台の上に会堂が与えられ、全体で22年間お仕えすることができたのは、神の恵みというほかありません。私は先生に「通信小海」を22年間送り続け、先生は、折々、あの達筆な書体、ときには絵も入れてはがきをくださって、励ましてくださいました。
 吉持先生は大きな器で、偉大な牧会者であって、私などまったく足元にも及ばないことは言うまでもないことですが、振り返れば、人生の節目節目、この頼りない私と妻はどれほど吉持先生に祈られ、励まされてきたことだろうかと、今にして思います。吉持先生は、私にとって伝道者としての覚悟を、いつも問うてくださり、そして励ましてくださる、怖くありがたい先生でした。