苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人権思想とキリスト教

 青学の森島豊先生の講演をうかがいました。教思想史が御専門という方で、でも、学者というアイデンティティ以上に、説教者ということを第一にしていらっしゃるとのこと。すらりとイケメン、イントネーションは「標準語」ですが、お話しぶりは関西人やなあ、という感じでした。これは学生たちの人気があるでしょうね。
 内容は、人権思想の成立にキリスト教、特にプロテスタンティズムの影響ということでした。英国市民革命の説教運動が果たした役割というのが特に印象深く残りました。また、日本国憲法の下敷きには、キリスト教に深い影響を受けた植木枝盛憲法が、マルクス主義運動に挫折した鈴木安蔵に掘り起こされて、憲法研究会の憲法草案となって、マッカーサー草案の骨子に相当の影響を与えたことに触れられました。
 政治運動が禁止され激しい弾圧をのがれて、カルヴァンやルターのもとに学びに行った人々が帰国して、地下にもぐって説教運動をしていくことで、それまで知識人のピューリタニズムが民衆に浸透していったという指摘には、自分の使命ということと重ねあわされて、励ましを受けました。
 そして、やがて人権思想は法制化されていきますが、そのときコモンローの運動家たちと一緒に戦ったという点は、課題となって今日にいたっていると思います。一番最後の点。神学生時代、靖国神社公式参拝に反対する集会に出たあと、デモに参加していたら、後ろから社会党だか共産党街宣車がくっついてきて、「ともに頑張りましょう」と叫んでいました。そうしたら、その後ろから右翼の日教組撲滅とか叫ぶ街宣車がくっついてきて、何か怒鳴っていました。あちらからみると、キリスト教社会党啓蒙主義・コモンロー派)も一緒に見えてしまうんでしょうね。
 啓蒙主義者の人権理解と、キリスト者の人権理解の根本的なちがいは、「自由」の理解の違いだと思います。自由は「~から、~への自由」と把握ことによって、具体化されます。啓蒙主義者のコモンローにおける自由とは、「国家権力から自律への自由」ですが、キリスト者の自由とは「国家権力から神への服従への自由」です。戦った相手は同じでしたが、目指すことが異なります。つまり、啓蒙主義者の場合、「神」のところに「人権」が入ってしまいます。人権の神格化は、それはそれで問題です。私たちはこのことをわきまえていないといけませんね。

 今、新幹線の中ですが、森島先生の『人権思想とキリスト教』という本を読み始めました。

 羽田にいます。森島先生『人権思想とキリスト教』を帰り道に読んでいます。明治の人権思想家植木枝盛、それを掘り返して日本国憲法に注入した鈴木安蔵がいたわけですが、森島先生によれば、それにもかかわらず、日本においては人権思想史としてつながっていかないという問題があるという問題があります。日本国憲法に人権思想が語られていても、それを受け止める受け皿がなかったのではないか、と。それゆえ、むしろ、今日ではその反動の時代にはいって、97条の最高法規である基本的人権条項を破棄する憲法改正草案をかかげた党派が政権を握っているありさまです。
 なぜ、このように「受け皿」がなく「単発」に終わってしまってきたのでしょうか。日本人が、人権をまことにかけがえのないものであることを深く知っていないからです。日本人の基本的価値観エートスになっていないからです。それは、一つには聖書に啓示された「神のかたち」として造られた人間の尊厳という、人権の根拠を持っていないからです。・・・そうだとすれば、真正の福音の説教がいかに大事かと思わせられます。