苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

J.S.「古典的ディズニープリンセス作品の『王子による救い』と現代ディズニー作品の『自己実現』」

 フェイスブック友のJ.S.君が書いたものです。教えられるところが多く、多くの人たちに読んでほしいものだと思ったので、ご本人の許可を得て、ここに掲載いたします。                                                        

以下、引用です。

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 人権意識の高い人やフェミニズムに関心の高い人からは、古典的ディズニープリンセス作品(『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』『リトル・マーメイド』やや変則的ながら『アラジン』など)は批判を受けます。それらの作品は程度の差こそあれ、その作品におけるプリンセスの「幸せ」に
1.「王子に見出される(選ばれる)」
2.「王子に助けられる」
3.「王子と結婚する」
という要素が深く絡んでいるからです。この点からそれらの作品は「女性は弱いので男性の助けが必要」「女性は男性と恋愛して愛されてこそ価値がある」という誤った価値観を広めていると批判されます。この批判はもっともです。筆者はその批判に対して反論する気はありません。しかし、上記の3点の要素を聖書のメガネを通して観ると、違うことが言えると思います。

 

1.「王子に見出される(選ばれる)ということ、救いの根拠・確かなもの」


 さて、古典的ディズニープリンセス物語は、
「平凡or悲惨な人生から、王子に見つけ出される」「死の危険から王子に救われる」「何者でもなかったはずの娘が、権威ある王子によってプリンセスとして愛される」
と要約できます。これは古典的少女漫画でも似たようなものが多いです。
「平凡or悲惨な私が学校一権威ある人物(王子)に見出され、気遣われ、愛される」という話です。
共通するのは「努力や何かの達成なしに、王子という権威ある者が最初から私を選んでくれる、それによって私は価値あるものとなる」というパターンです。極端な話、アイデンティティ(私自身の価値)が自分自身によるのではなく、私を選んでくれる王子によるのです。そこまで王子の存在の強制力が強くない作品もありますが、王子との結婚は「末長く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」へと続く強力な舞台装置であることは間違いありません。

 「そんな話聞くのもイヤだ」と思う人はまだ読むのをやめないでいただけたらと思います。これからが本題です。
この「私自身の価値が自分自身によるのではなく、私を選んでくれる王子による」ということは、聖書が語る福音(良い知らせ)に似ているのです。聖書によると、人は何か功績を残したり何かを実現したりしたからではなく、神によって神に似たものとして造られ、神によって愛されているからこそ価値があるのです。
「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」ローマ人への手紙3:24
「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」同9:16
自分の価値の保証は自分にはなく、自分よりはるかに価値のある神様に保証があるのです。古典的ディズニープリンセスが結婚によって幸せになれるのは、その相手が自分を選び、愛してくれる特別な王子だからです。
王子が平凡or悲惨な人生を送っていたプリンセスを愛してくれるように、神であるイエス・キリストが平凡or悲惨な私たちを愛してくれる、と聖書は教えています。

 

2.「王子に助けられるということ、救いに対する無力さ」

 古典的ディズニープリンセスは自分自身の救いに無力な存在です。
白雪姫と『眠れる森の美女』のオーロラは、仮死状態から王子のキスで目覚めます。
シンデレラは王子に見つけ出され、王子に認められることで、継母とその娘たちからの虐待という死んだような状態から救い出されます。ディズニーアニメ版ではシンデレラ本人の機転が追加されていますが、最近のディズニー実写版では王子の機転が追加されています。
『リトル・マーメイド』のアリエルと『アラジン』のジャスミンは、王子の助けにより、人を死へと誘うサタンのような存在に勝利します。(アラジンはこのときまだ王子ではありませんが、役割としては既にこの文章で言う王子です。)
プリンセス達はその死からの救い、死に対する勝利において無力です。
幾分かプリンセスが貢献しているような場面もありますが、王子がいなくては彼女達の救いはなく、救いをもたらすのは王子です。
これは人権意識の高い人、フェミニストに批判される要素です。繰り返しになりますが、”男女の関係のあり方だけに注目するなら”、その批判はもっともです。
しかしまた、聖書の教えに即してこの「無力さ」を考えていきたいと思います。聖書はこの「救いに対する無力さ」を教えています。人は自分の弱さ、悩み苦しみ、そしてその究極のものである「死」に対して解決策を持っていません。どれだけ頑張っても、自分の弱さを克服して完璧な人にはなれませんし、悩みが無くなることはありませんし、死を逃れることはできません。
聖書は、その解決は人にではなく、人を愛している力強い神にあると教えます。
人は自分自身で救いを得ることに対して無力で、ただ神の愛と恵みにより、それが人に与えられるのです。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」エペソ人への手紙2:4,5
率直に言ってこの教えは人を不快にします。人は自分自身に力があると思いたいし、自分で自分の救いを成し遂げたいと思います。
しかし、聖書によれば、人は己の無力さを認めて、力強い神により頼んだときに、神からの助けを得て、死からの救い、死への勝利を得られるのです。
「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40:30,31

 

3.「王子と結婚するということ、本来の地位への回復」


 少女漫画の平凡な少女と古典的ディズニープリンセスには違いがあります。少女漫画の平凡な少女は生まれも平凡な少女です(もし高貴な出生の秘密がある場合は、これから説明する古典的ディズニープリンセスと同じタイプに分類できます)。古典的ディズニープリンセスは平凡or悲惨な人生を過ごしていますが、高貴で特別な存在として生まれています。
白雪姫は継母に命を狙われお城を離れ森へ逃げ、
シンデレラは高貴な暮らしをしていましたが父の死後継母とその娘たちに虐待され、
『眠れる森の美女』のオーロラは呪いから逃れるためプリンセスと知らされず森で育てられ、
『リトル・マーメイド』のアリエルと『アラジン』のジャスミンは王宮で暮らしながら王宮の生活を嫌います。
彼女たちは、たとえ生まれが高貴でも、王子と結ばれるまでは彼女たちの人生の中で何者でもありません。本来いるべき位置から迷い出ているのです。彼女たちは、作品が始まった時点では「失われた状態」で、何者でもないのですが、王子に見出されることによって本来のプリンセスとしての立ち位置を回復するのです。これもまた聖書との類似があります。聖書によると、人は失われた羊(マタイの福音書18:12-14、ルカの福音書15:4-7)にたとえられます。本来は良い羊飼いに養われるはず(詩篇23篇)が、その方から離れ、迷い出ています。また、放蕩息子(ルカの福音書15:11-32)のように、愛に満ちた父の家から家出した状態にあります。このたとえは、本来あるべき神のそばから離れて過ごす人間の悲惨な姿を表わしています。生まれながらに祝福された地位にありながら、その地位から離れてしまっているのです。
聖書においては、良い羊飼いであるイエス・キリストによって、キリストの所有である失われた羊は見つけ出されます。元いた場所である神のそばに戻ることで、本来の自分に戻り、人は幸せになれるのです。ディズニーの『シュガー・ラッシュ』は「本来の地位への回復」というテーマを見事に描いた傑作です。主人公の一人であるヴァネロペはディズニーの商品展開上のディズニープリンセスではありませんが、私の分類では(『アラジン』と同じく変則的ながら)古典的プリンセスに当てはまります。ところが、その続編の『シュガー・ラッシュ:オンライン』では(ネタバレですが)ヴァネロペが、1作目のヴィラン(悪役)のように、本来の自分のゲームから脱走し、他のゲームを改竄し、他のゲームの住人になることを実行します。祝福され、愛されていた本来の立場に不満を抱き、これから説明する「自己実現」の道を選択したのです。

 

4.「自己実現


 さて、これまで説明してきた古典的ディズニープリンセス作品に対して、現代のディズニー作品には、生まれ持った立場がネガティブな要素として描かれ、自分がなりたい自分になる、自分自身の行動によって自分自身を作り出す、というパターンがあります(『ズートピア』、『シュガー・ラッシュ:オンライン』など)。
自身の価値を自分で決めるのです。これは現代的な自己実現の価値観です。
ただこの価値観には文字通り致命的な弱点があります。自己実現によるアイデンティティの確立は常に不安定です。自己実現は一度何かを成し遂げて終わりではありません。常に自分自身を何かの要素で構成し、自分を満たし、何かを実現し、目標を達成し、「価値あるもの」と自認できる自分を維持し続けなくてはなりません。走り続けなければその場にとどまることすらできない『鏡の国のアリス』の赤の女王のようなものです。良い高校に入り、良い大学に入り、良い仕事に就き、良い業績を残し、良い家庭を築き、良い交友関係を持つ。そういう人生観が典型です。しかし、人生はそう上手く行きません。自己実現によるアイデンティティの確立は、大きな失敗や、目指していた目標が達成不可能となることによって壊れてしまいます。
 『ズートピア』の主題歌”Try Everything”は、失敗しても挑戦し続けることを勧めています。”Try Everything”(日本語版では「やるのよ なんでも」)というサビの繰り返しは、「いつか王子様が」と歌った白雪姫に比べて、スポ根と(たくましさ、強さ、勇敢さを至上とする意味で)マッチョイズムに通じており、いささか息苦しさがあります。(「筆者は『ズートピア』を嫌っている」と思わないでほしいです。筆者は『ズートピア』が好きです。映画館に観に行きましたし、Blu-rayも買いましたし、ジュディのぬいぐるみも持っています。ただ、そうした傾向があると考察しただけです。)

 筆者は努力を否定しているのではありません。補足でも書きますが、聖書は神に仕え、人に仕えることに努力するよう奨めています。また、夢を叶えることに反対しているわけでも、親の仕事を受け継ぐ封建制度を支持しているのでもあるません。問題にしているのはアイデンティティ、自分の価値をどこに置くかです。「アイデンティティの確立のための自己の努力」は、永遠に安定しない道だと考えるざるをえないのです。筆者は、人は何かを成し遂げたからではなく、神によって神に似たものとして造られ、神に愛されているから、人は生まれながらに価値があると信じているのです。人には生まれながらに何人(なんぴと)にも侵害されない価値があるという「人権」の考え方も、本来はその聖書の考え方に起源があります。人権意識の高い人の中にはキリスト教を目の敵にする人が多いですが、神抜きの人権は、それを保証してくれるものが残念ながら存在しません。「共同体(民主主義政府など)の合意」を人権の保証とすると、共同体と合意できない少数者の人権は、最悪失くなります。「人は生まれながらに尊い」と言うためには、人が作る共同体より上の存在、神様が不可欠です。

 

5.「まとめ」


 プリンセスと王子が結婚して末長く幸せに暮らすエンディングには安心感を覚えます。
子どもの頃には受け入れることができた「誰かが与えてくれる幸せ」「誰かが与えてくれる愛」を信じられなくなるのは、現代社会が「人生に意味なんてない。他者に期待せず、自力で自分自身の満足を獲得し続けなくてはならない」という価値観で回っているからではないでしょうか。現代社会を殺人的に忙しく、非人間的に冷たくする価値観です。
しかし、聖書に書かれている神様は、私がたとえ一生のうちに何も達成できなかったとしても、それどころか失敗を繰り返す惨めな私でも、生まれる前から私のことを知っていて、私を愛してくれる神様です。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」ヨハネの手紙第一4:10
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」ローマ人への手紙5:8
シュガー・ラッシュ:オンライン』では「強くて立派な男性に救われたこと」を喜ぶプリンセスたちをバカにします。「男に愛されることを至上の喜びとするバカな女」として描きます。しかし、古典的ディズニープリンセス物語のメッセージは「強くて立派な男性と恋愛しないと女性は幸せになれない」ということではなく、「特別なあなたを愛してくれる特別な存在がいる」ということではないでしょうか。恋愛や友情に限って言えば、「自分の周りにはそんな人はいない」と思うかもしれません。しかし、聖書はその存在こそ、イエス・キリストだと教えています。
ヨーロッパの童話とそれを原作とするアメリカのディズニー映画には、キリスト教の価値観が無意識のうちに反映され、白馬の王子様に、救い主であり栄光の花婿であるイエス・キリストが投影されているのではないでしょうか。あるいは、人々に愛され喜ばれる物語を作ろうとしたら、自然と聖書の福音(良い知らせ)に似たのかもしれません。

 聖書のエンディングはプリンセス物語のエンディングと似ています。
しかし、それは昔話のように過去に終わった空想の物語ではなく、これから現実に起こることとして描かれています。
「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」ヨハネの黙示録21:4
おとぎ話風に言うとこんな感じでしょうか。
「そして彼らは末長く幸せに暮らすのです。めでたし、めでたし」。

 

補足:
①よく知らない相手と結婚して幸せになろうとすることは『アナと雪の女王』作中で批判されている通り愚かです。
自分の幸せを王子に頼るのは「満足な豚」の道で、自分の幸せを自分で定義し、自分で獲得する方が「不満足なソクラテス」の道に見えます。
この点は、王子も人間であるゆえのプリンセス物語の様式の限界です。
ちなみに聖書では神についてよく知ることが推奨されます。
福音(良い知らせ)を受け入れる前に、福音について詳しく調べた人々は良い姿勢として聖書に記されています(使徒の働き17:11)。
また、良い顔をして人を悪い方向へ誘導しようとする存在についても書かれています。
「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します」コリント人への手紙第二11:14
この点(ネタバレですが)救い主のフリをしてプリンセスを死へと招く『アナと雪の女王』のハンス王子はサタンのような存在と言えます。聖書に出てくるサタンは多くの場合、角が生えていて火を噴き正面から攻撃してくる訳ではなく、甘い言葉で人を死の道へと誘惑してくる存在です。
話を戻します。聖書は知性を用いることを肯定します。
聖書の教える信仰とは盲信ではなく「確かな認識と心からの信頼」です(ハイデルベルク信仰問答第21問)。
また、聖書では神の愛を知った人は自己中心的な生き方をするのではなく、他者を愛する生き方に変えられていくと教えています(ピリピ人への手紙2:5-11など)。
自分の幸せ以外は気にしない生き方ではなく、神の愛を受け、神を愛するゆえに、神が造った隣人を愛し、神が造った隣人に仕える生き方です。
②ディズニーの『白雪姫』のエンディングは、王子に導かれて進んでいくと、はるか中空に光り輝くお城が浮かび上がるものです。まるで『天路歴程』です。
この演出を見るに、『白雪姫』では、「花婿なるキリスト」「神の国の完成」という聖書の終末の概念が意識的に反映されているのかもしれません。
③この文章は福音(良い知らせ)の全体像を語ることは目的としていないので、福音について十分には説明していません。
プリンセス物語にはなく福音にあるものとして「義認」「罪の赦し」の概念があることを特に明記しておきます。
良い物語は人生の慰め・安らぎ・喜びになりますし、人生の良き友となります。しかし、どんな物語も、聖書が教える福音の代わりにはなりません。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」
ヨハネ福音書14:6