苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

お茶とお茶碗・・・聖書学における「最新の学説」

 聖書学の流行に敏感な人々の中に、最新の学説が最良の学説というふうに思い込んでいるらしき人々を見かける。もし、物事全てが「進化」しているのであるとすれば、学説においても最新の学説が最良の学説ということになる。しかし、これは神学に関しては間違った前提である。神学においては、最良の学説は古い新しいには関係ない。最良の学説とは、もっとも聖書の教えにかなった学説を意味している。最新の学説というのは、いまだ十分な検証をされていない怪しげで不確かな学説なのである。特に、学界においては何か新しい知見が含まれなければ、論文として発表する意義はないとされているから、学者たちは新説を発表せざるをえないので、えてして新説は珍説でありがちである。学者たちにそういう事情があることには同情するけれど、牧師がいちいち「最新の珍説」に付き合っていては教会が混乱し、信徒が迷惑するだけである。

  「最新のものが最良のものである」という考え方は、19世紀の進歩史観がもたらしたカビの生えた偏見である。ルネサンス時代には、古いものほど良いという思想つまり退歩史観があった。ギリシャ・ローマの古典時代が黄金であり、それが頽落して銀の時代、青銅の時代、鉄の時代と変化してきたから、古典時代を回復しようとしたのがルネサンス運動である。プロテスタント宗教改革も、教会は千年以上も経つうちに聖書から離れてしまったから、聖書に立ち返ろうとした復古運動である。
 だが自分は進歩史観に立ってこういう判断をしていると自覚している人はわずかであろう。固定電話からガラパゴス携帯、ガラケーからスマホというふうな科学技術の進歩をということから、最新ものが最良というふうに単純素朴に思っているのだろう。「その考え方はもう古いよ」と言ったことのある人は、進歩史観にすでに染まってしまっていると言ってよい。近代においては、科学技術のめざましい進歩があったために、他の学問分野においても自然科学をモデルとするようになった。だが、聖書理解は科学技術のように進歩するわけではない。学者たちが、いろいろな時代思潮の影響を受けて、「新しい聖書解釈」を提案してきたのだが、それが本来の聖書の教えにかなっているのかどうかを検証しなければならない。特に近代聖書学は哲学の国ドイツで「発達(?)」したが、18~20世紀前半の時代に流行していた哲学学派の観点から聖書を読むということが当たり前のようにされた。カントの認識論の枠組みで聖書を解釈したり、ヘーゲル弁証法新約聖書の成立を解釈したり、進化思想で旧約聖書の成立の仮説を立てたり、ハイデガーの実存論哲学の枠組みで新約聖書を解釈したりしてきたのである。

  英国の学者は一般にドイツのこういう観念的・哲学的な学風を嫌う。英国の学風は一般に常識的である。そういう気風からいうと、古代のアンテオケ学派風の歴史的文法的聖書解釈によって、「本来の聖書テクストの教え」を読もうとする傾向にある。「本来の聖書テクストの教え」とは何を意味するのか。それは聖書の当該テクストの執筆者が彼の第一の読者に伝えようと意図したことである。そういう考え方から、執筆者の置かれた時代的文化的言語的背景という観点から、そのテクストを理解すればよいと考えて、オリエントの神話における創世神話の枠組みで創世記を解釈したり、パウロがかつて属したユダヤ教パリサイ派という背景からパウロ書簡を読むべきだと主張したりするのが現代英国風の流行である。それは確かに意味のないことではない。いや重要なことであり、ドイツ風の観念的な読み方よりは相当ましである。

 だが、聖書という書物は、神の霊感によるという特殊な性質を帯びていると聖書自体が主張している。そのことを考慮することなしに、歴史的文法的聖書解釈をするのは間違いである。つまり、超歴史的な存在である神が、歴史の中に介入して、歴史の中に住む聖書記者たちを用いて、聖書全体を書かせたのであるから、聖書はただの多数の古文書を集めたものではなくて、全体として神のことばとしてのそれ自体で独自の性質を帯びていることを考慮しなければ、聖書を正しく読んだことにはならない。そのテクストの前後という小文脈、その書全体という中文脈、パウロ書簡群という文脈、そして、聖書66巻全体という大文脈をわきまえて、解釈することである。大文脈についていえば、聖書全体を啓示したのが聖霊であるから、不明瞭な箇所があれば、聖書全体を見渡してより明瞭にその真理を啓示された箇所によって理解することが可能だからである。あるいは聖書全体の教えと調和するように、当該テクストを解釈することである。

 その上で、パウロなり創世記の記者なりの時代文化言語的背景を考慮するのが順序である。それはなぜかといえば、神が聖書文書を啓示をするにあたって、その時代の文化や言語の使用者を用いたのは事実であるが、それはいわば器であって、器に盛られた中身ではないからである。神は中身を伝えようとして、器を用いたのに、器ばかり観察していても始まらない。茶道でお茶を出されると、まずお茶をいただいてから、お道具拝見ということで茶碗を見せていただくではないか。茶を飲みもせずに茶碗を眺めてばかりいたら、茶が冷めてしまう。どうもサンダースやライトらの聖書の読み方を読むと、お道具拝見が優先しているように見えてならない。

 さらに現代では、執筆者の意図ではなく、読者が読みたいように読めばよいという解釈の考え方が流行るようになっている。主観主義の時代である。しかし、聖書釈義はexgesus読み取りであって、eisgesus読み込みであってはならないという原則を揺るがしてはならない。こんな流行は10年か20年もすれば過ぎ去るであろう。説教者、教会は、このような時代の流行にいちいち付き合う必要はない。
(少々書き換えて再アップした文章です)