苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

吉村昭『プリズンの満月』

 私は学生時代のようには小説を読まなくなってしまったが、十年ほど前から吉村昭さんの作品だけは好んで読んできた。その無駄な装飾をいっさい削ぎ落し、克明に誠実に歴史の事実に基づいて書くことに努める文体が好ましい。

 『プリズンの満月』は、先の大戦後、勝者が敗者を一方的にさばいた東京裁判で「戦犯」とされた総数千六百人(うち六十名は処刑、十八名は獄死、二名は自殺)の人々を収容した巣鴨プリズンに務めた一人の刑務官(架空の人物だが)の視点を通して、いったい東京裁判と、それが作り出した「戦犯」とは何だったのかということを描いている。

 戦後間もないGHQ統治の時代、SUGAMO PRISONは米軍の管理下にあって、当初、「戦犯」たちには懲罰的重労働が課せられた。だが朝鮮戦争が起こると、米兵たちが朝鮮半島へと派遣されて人員不足となったので、日本人の刑務官が全国の刑務所から選抜されて、巣鴨へと召集された。米軍管理下に日本人刑務官たちが、「戦犯」たちを警備しなければならなくなったのである。当初、米軍は刑務官と「戦犯」が交流をもつことを警戒し、これを厳格に禁じたので、「戦犯」たちは刑務官たちを不信感に満ちて米軍の犬のように見なしていたが、刑務官たちの努力により徐々に状況が変化してゆく。朝鮮戦争がさらに続くなか、1952年に日米講話条約(サンフランシスコ条約)が結ばれて、米軍はSUGAMO PRISONを完全に日本に移管し巣鴨刑務所となるが、一般には巣鴨プリズンと呼ばれた。日本に移管したとはいえ、なお連合国の意向の下でしか戦犯たちを扱うことはできなかったが、東西冷戦が激化していくなか、米国が日本を戦略上友好国とみなすようになっていくにつれ、「一時出所」という名目で、「戦犯」たちは自宅へと帰ることが許されるようになり、巣鴨刑務所は徐々に事実上、戦犯たちの宿泊所のようになっていき、1957年(昭和32年)には収容者は誰もいなくなる。こうした経緯は「戦犯」なるものがもともと法的根拠が希薄で、政治的色彩の強いものであったことを意味している。

 やがて1973年からの東池袋再開発にあたって、巣鴨プリズンは取り壊されて、サンシャインシティおよび東池袋中央公園となっている。

 「戦犯」といえば、処刑されたA級戦犯靖国合祀問題と、岸信介・児玉誉志夫・正力松太郎がCIAとの取引で出獄したこと、そして「わたしは貝になりたい」にとりあげられたB級、C級戦犯の理不尽な処刑といったことしか知らなかった私にとって、多くのことを教えられ、考えさせられる作品だった。