苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

種をまき続けるなら

 

(前任地、長野県南佐久郡小海町の小海キリスト教会が25周年記念文集をつくるそうで、そのための寄稿を昨年秋に求められていたのを忘れていて、慌てて今日書きました。そういえば、5年ごとに文集を作っていました。)

 

 小海町馬流元町の借家で集会を始めて、1年数か月たったころからTさんと一緒に礼拝に集われるようになったEさんが「若い頃、私は『この小海町に教会ができますように』と祈っていたんです。」とおっしゃったことを憶えています。その祈りが、小海キリスト教会の始まりなのでしょう。

 私は大学1年生の終わりに洗礼を受け、イエス様の十字架の愛に感動して献身を志しました。その1年2か月後に、主はマタイ福音書28章の宣教命令をもって「あらゆる国の人々を弟子としなさい」との召しをくださいました。大学卒業後、東京基督神学校に進み、1年生の2学期から友人たちと「日本福音土着化祈祷会 葦原」を作って、毎週月曜日の夕食後、日本の農村部の諸教会から寄せられた祈りの課題を祈るようになりました。戦後、都市に人口が集中し、農村部が忘れ去られているけれども、そうした地域には教会に行く機会も福音を聞く機会すらない人々が取り残されていることは、主のみこころにかなうことではないと神学生たちは考えたのでした。

 神学校卒業後の第一の任地は練馬区の住宅街で、宣教師とともに4年間、その後は私ども夫婦で5年間、大泉聖書教会にお仕えしましたが、その間も、祈祷会の「葦原」は「研究会」と改めて活動を継続していました。そして練馬での7年目から、「神様、私を福音が十分届いていない地域、教会がない地域に遣わしてください」と祈るようになりました。

 9年目の夏、私は松原湖バイブルキャンプの高校生アウトキャンプのご奉仕に出かけました。高校生たちのためのみことばの働きが祝福されることと、私の将来に関する導きがあるようにと祈りました。キャンプではほとんどの高校生たちが信仰決心をし、一緒に奉仕したスタッフからは献身を表明する人が起こされました。このキャンプを終えたとき、「葦原」の仲間だったキャンプ主事の篠田先生と交わる機会がありました。「ビジョンは何なの?」と聞かれて、私は「福音が十分届いていない地域、教会がない地域に教会を始めること」と答えたところ、篠田先生はこともなげに「じゃあ、この小海町に来ればいい。南佐久郡には一つも教会がないから。」と言ったのでした。主の答えだと信じ、決断しました。

 東京にもどると、妻こず江にこの決断について告げましたら、「はい」と従う決断をしてくれました。ですが、当時、6歳の長男がいて、妻はお腹に苑美を宿している上、病を得て一緒に暮し始めた母もいましたから、不安がないわけではありません。そんな妻に神さまは詩篇23篇から「まことに私のいのちの日のかぎり、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の家に住まいましょう。」というみことばをくださって、平安を賜りました。

 南佐久郡、小海町に赴任してからの22年間。今振り返れば、ほんとうに夢のようです。知り合うとすぐにその方の家を訪問したり、田植えをしたり、家庭集会を開かせてもらったり、公民館で賛美の会をしたり、結婚準備会で多くの人に個人伝道をしたり、的を射た方法だったかどうかはわかりませんが、手あたり次第なんでもしました。ですが、ずっと続いたのは「通信小海」でした。「主の羊は主の声を知っている」(ヨハネ10:3参照)、「この町にはわたしの民がたくさんいる」(使徒18:10)と信じて、南佐久郡七千軒の家々に、キリストの福音を充満させたのです。神さまは一人二人と主イエスを信じる兄弟姉妹たちを起こしてくださいました。

 これらのことは、一人の姉妹が祈られた「この小海町に教会ができますように」という祈りに対する、神さまのお答えなのでしょう。主にある兄弟姉妹。これからも、福音の種をまき続け、収穫し続けてください。

 

「涙とともに種を蒔く者は

  喜び叫びながら刈り取る。

 種入れを抱え泣きながら出て行く者は

  束を抱え喜び叫びながら帰って来る。」詩篇125:5,6