苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パウロにおける「義認」と「救い」の用法

 ウェストミンスター小教理問答書は、キリスト者(有効召命を受けたもの)が、今の世で受けるおもな祝福を義認、子とすること、聖化であるとしている(問答32)。

 これに対して、N.T.ライトは、パウロにおいて、義認とは神の民であることの認定を意味しているとされ、かつ、義認の本体は今の世でなく未来の審判におけることであり、今の世における義認は仮りのことであるという。どちらがパウロが書いていることに合致しているだろうか?

ローマ書5章1-9節
1,こうして、私たちは信仰によって義と認められた(過去)ので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(現在)。
2,このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3,それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4,忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5,この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
6,実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7,正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8,しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
9,ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われる(未来)のは、なおいっそう確かなことです。

10,敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われる(未来)のは、なおいっそう確かなことです。
11,それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

 ここには、ここにはキリスト者の人生が、時間軸において整理されている。第一に過去のある時点でイエスを信じたときに義と認められたということ、それゆえ、第二に現在、キリスト者は神との平和を持っているということ、第三に、未来、キリスト者は神の怒りから救われるということである。パウロは未来の審判における神から提供される祝福を「義認」とは言わず、「(神の怒りから)救われる」(9,10節)と表現するのである。

 したがって、ライトの義認理解でなく、ウェストミンスターの義認理解が、パウロの用語法にかなっている。

 

 ライトは第二神殿期のユダヤ人たちの歴史意識の中で、義認とは未来に神がご自身の民を認定することを意味していたのだというのだが、それはどこまでほんとうなのだろうか疑わしい。確かめるには、同時代のユダヤ教文献に当たるほかない。しかし、それも、パウロ自身が、そういう意味では義認という用語を用いていないのだから、あまり意味のないことである。

 新約聖書研究のために有用な同時代の膨大な英訳文献集はエヴァンズのこれと新約学者の友人に教わった。だが残念、語句索引はついていない。

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 語句索引を望むならば、むしろ、ネット上にあるタルムードが便利。

www.sefaria.org