苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

<書評>聖書を愛するすべての人に

O・パーマー・ロバートソン著 
『契約があらわすキリスト ―聖書契約論入門』
  (清水武夫監修/郄尾直知訳)
                 

 「やっと出ますか!」本書の邦訳・出版の知らせを受けて、フェイスブックに思わず書いてしまいました。首を長くして待ちに待ってすでに三十数年ですから。
 東京基督神学校在学中に、清水武夫先生の契約神学の授業を受け、また、水曜夜の祈り会で創世記二章の緻密な講解を1年間聞き続けて、自分も先生のように聖書を読めるようになりたいと思いました。先生の聖書講解を聞いていると、創世記一章から黙示録末尾まで一貫して流れる「恵みとまことの契約」という一本の大きな川と、いくつもの小川がその大川に流れ込むありさま、それが私たちの救い主キリストという巨大な湖に流れ込んで見事に成就していくありさまが、ありありと見えてきたからです。一例を紹介しましょう。
 神は、アブラハムに結んだ契約の通りに、エジプト脱出を果たした民に対して、ご自分が民の中に住んでくださるとおっしゃり、それを幕屋をもって表現してくださいました。「幕屋の入り口に垂れ幕を掛け、(中略)……こうしてモーセはその仕事を終えた。そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト40:28,33,34抜粋)この幕屋は影であり、本体はキリストです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)清水先生が、「『住まわれた』と訳されたギリシャ語は直訳すれば『幕屋を張った』なのです。」と指摘されたとき、私は鳥肌が立ちました。
 しかも、会見の天幕の入口の垂れ幕に織り出されていたのは、あのケルビムです(出エジプト26:31,33)。ケルビムはエデンの園の、いのちの木を守る御使いです(創世3:24参照)。聖書がいう「いのち」とは神との交わりを意味します。堕落前、人は園において神といのちの交わりがありましたが、堕落以来、罪あるままで神の顔を見る者は死ななければならなくなりました。人は神のもとにある永遠のいのちを希求しながら、罪ゆえに神に近づけないというジレンマに陥りました。しかし、人となって私たちの間に幕屋を張られた神の御子イエス・キリストが、十字架で私たちの罪の償いを完了されたとき、神は至聖所の垂れ幕を破棄なさいました(マルコ15:38)。キリストを通して、私たちは神に近づくことができるようになったのです。
 さらに神の幕屋が究極的完成を見るのは、主キリストが再臨し、地と天は跡形もなくなって(黙示20:11)、最後の審判が完了して、新天新地が出現し、そこに主を出迎えに挙げられた聖徒たちとともに主が住まわれる新しいエルサレムが下りてくるときのことです(黙示21:1,2)。その時、御座から大きな声が響き渡ります。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(黙示21:3)
 神のご計画の全体像を鳥瞰しつつ、聖書の各部分があんなふうに緻密に豊かに読めたら、なんと素晴らしいだろう、と思いました。そこで私は先生が師事しておられたO・P・ロバートソンのThe Christ of the Covenantsを手に入れてむさぼるように読みました。目からウロコがぽろぽろ落ちて、本はアンダーラインだらけになってしまいました。あまりにうれしかったので、私を神学校に送ってくださった土浦めぐみ教会でも、半年ほどかけて、この本の内容紹介のクラスを持たせていただきました。その後も、いくつかの教会で、この本の内容を紹介させていただきましたが、その都度、何人もの方から「目を開かれた」という感想をうかがいました。
 そんなわけで、私は神学生から必読書の紹介を求められるときには、かならず必読書リストの中に本書を挙げてきました。ただ、英書ですから、これまでは近づきがたい面がありましたが、このたび、日本語で読めるようになったのです。すばらしいことです。以上、聖書を説き明かす務めのある方たちはもちろん、すべての神を愛し聖書を愛する方たちに、本書をぜひにとお薦めする次第です。
(みずくさ・しゅうじ=同盟基督苫小牧福音教会牧師・北海道聖書学院教師)

(四六判・四五六頁・二七〇〇円+税・ヨベル)

10月20日出版予定で、予約受付中だそうです。
株式会社ヨベル
http://www.yobel.co.jp/contact/