苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

元日大アメフト選手の会見を見て

 関学の選手に反則行為を働いた元日大アメフト部の選手の記者会見の一部始終を見て驚いた。事件に至る三日前からの監督・コーチとのやりとりを詳細に話し、あの反則行為が監督・コーチの指示があってなされたことを明らかにした。監督・コーチは彼を練習から外し、もし使ってほしければ、全日本のメンバーを辞退したくなければ、関学QBにけがをさせろと命じたのである。こうした事実を明らかにしたうえで、しかし、たといそのように監督・コーチの指示があったにしても、自分自身があの反則行為をしたことは事実なので、その責任は免れないとした。
 自分の顔と名前を世間にさらして、事実の経緯を正確に、そして自分の責任を明確に述べた勇気と知性に驚いた。そして、私自身、ひどい偏見をもってこの事件を見ていたことを反省させられた。それは、脳みそ筋肉みたいな運動選手が、勝利至上主義の監督・コーチの言いなりになって、ヤクザの鉄砲玉みたいにやったことなのだろうという偏見だった。後半については間違いないようだが、前半は間違いだった。元選手は、まれに見るほどに、健全な精神をその肉体に宿らせている青年であると見えた。それだけに、もともとこういう健全な考え方ができる青年を、ああいう行為に走らせた監督・コーチの責任は非常に重い。
 創世記第三章のサタンの誘惑と人間の堕落の記事を思い出した。神に追及を受けた時、アダムと女は神の御顔を避けて木の陰に隠れ、「あなたが私のそばに置いたこの女が」と責任転嫁し、女は「蛇が・・・」と責任転嫁をした。蛇が誘惑したのは事実である。しかし、禁断の木の実を取って食べたという責任はアダムと女にある。「もし」を言っても仕方ないことと知りつつあえて言ってみるが、もしあのときアダムが「はい。私が木の実を取って食べました。私に責任があります。」とあの選手のように答えていたら、神はアダムをどのように扱われたのだろう?と考えてしまった。
 それにしても、元選手のことばは、まるでアダムの子孫のことばではないかのようだった。過ちは犯したけれど、これからの人生、彼には更生する力があると感じ、彼のために祈った。