苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ライフラインの集い準備祈り会

20:18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。
 「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。
20:19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。
20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
20:22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
20:25 皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。
20:26 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。
20:27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
                          使徒20:17−27


 きょうは6月に開かれる苫小牧ライフラインの集いの準備祈り会が苫小牧で持たれました。そこで、本多民生牧師が使徒20章のエペソの長老たちとのわかれの説教のところから話をしてくださいました。ポイントは二つ。
 第一は、神の御計画のすべてを伝え尽くしたから、私には責任はない!と宣言したパウロ。なすべき仕事をしつくしたという確信。  
 第二は、従来新改訳で「心縛られて」となっていたところが、2017では「御霊に縛られ」となっている点。御霊に縛られて、主のみこころのままにエルサレムで迫害にあうとしても、その使命をはたしに行くのだ、と。福音を証しするというのは、そういうことだ、と。
 先に福音にあずかった私たちは伝える使命がある。

 集いが終わって家に帰り、この箇所のギリシャ語本文を読んでみたら、あれ、変だなのと思ったら、右から読んでいました。ヘブル語を二日間にらんできたせいですねえ。にらんでいるだけで、よくは読めないんですが。
・・・スラスラ読めないからこそ、大事なことを見落とさないですむのだと、昔、宮村先生が教えてくださいました。走っていると見えないものが、ゆっくりゆっくり歩いていると見えるように。