苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

新改訳2017(その2)  主の祈りの件

 新改訳2017を読んでいます。多くの方の感想と同じように、不思議と読みやすくてスラスラ読み進めてしまいます。読んでいて快適なんです。理由は一つには行間が以前より広くなり、紙の色もクリームになったこと、そして訳文が少しずつこなれたものとなったことが大きいのでしょうね。私は、訳文に注文をいくつか付けて、翻訳委員会に送っていましたが、半分強、修正されていました。たいへんなお仕事だったでしょうね。

 多くの人の祈りに影響のあるところで、ぜひ直してほしかったのに直っていないのは主の祈りの「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。ここは文語訳で「われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」にあるように「ごとく」という比例をあらわすことば(ホース)がギリシャ語本文にはあるところです。これを新改訳は訳出していません。
 おそらく、「赦した」という功績を根拠として義と認められるという功績主義的義認論の誤解をおそれて、というのでしょうね。しかし、信仰義認というローマ書の教えを理由にして、マタイ福音書の山上の説教の主の祈りの翻訳をいじるというのはよろしくないでしょう。
 山上の説教の中には、<赦すように赦される><量るように量られる>という教えが6:14,15にも7:1−5にもありますから、この主の祈りにおいても、「私たちが、私たちに負い目のある人たちを赦すように、私たちの負い目をお赦しください。」と訳すのが、文脈にかなっています。クリスチャンが兄弟姉妹を恨んでいたら、神の前に心に平安がなくなって祈れなくなる、そういうことがないようにと主の祈りで教えているわけです。同様の教えは、マルコ11:25「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」にもあります。つまり、クリスチャンが祈るにあたって、人を恨んでいてはだめだよ、ということです。兄弟姉妹とのいさかいは、祈りのさまたげになるという、とても大事な教えです。そういえば、ペテロも手紙の中で夫に対して次のように教えています。1ペテロ3:7「 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 たしかに、聖書全体が神のことばですから、聖書翻訳において、ほかの聖書箇所との調和が大事ですが、「ホース(ごとく、ように)」を抜いたこの翻訳は、調和させる箇所をとりちがえたのだと思います。なんでも信仰義認や救いに適用しがちな「福音派的」な現象かなあ。この個所は天の父に祈る子どもとしての祈りですから、義認の段階でなく、すでに神の子どもとされた者として聖化の人生における赦すことと赦されることとの比例関係を教えているところだと思います。