苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』

 先の敗戦後、ソ連軍は1945年2月米英とのヤルタ協定に基づき、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、対日参戦して満州に侵攻した。ソ連軍によってシベリヤに抑留された人々は57万5千人。氷点下30度を下る極寒の中での強制労働によって失われた生命は、厚生労働省政策レポート「シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について」には次のような数字が挙げられている。
(1)旧ソ連地域に抑留された者 約 575,000人(うちモンゴル約 14,000人)
(2)現在までに帰還した者 約 473,000人(うちモンゴル約 12,000人)
(3)死亡と認められる者 約  55,000人(うちモンゴル約  2,000人)
(4)病弱のため入ソ後旧満州北朝鮮に送られた者等 約  47,000人
 上記(2)の473,000人の日本への移送は1947〜56年にかけて行われたが、なお残された人々は実に敗戦から12年目になってようやく戻された。本書の主人公と目される山本幡男氏は、1954年8月25日にハバロフスク強制収容所で亡くなった。だが、山本氏が家族にあてて癌に冒された最期の床で力をふしりぼって書いた遺書を、彼が収容所で秘密裏に主催した「アムール句会」の人々を中心とした6人が、分担し一字一句暗唱して、遺族に届けたのだった。なぜ暗唱したのか。収容所の管理者は、収容所内で行われた事柄にかんする秘密が外部に出ることを嫌って、文字の書かれた紙は見つけ次第すべて没収することになっていたからである。それまでも秘密の句会が開かれるたびに、メンバーはそれぞれセメント袋の切れ端に煤でつくった墨で記して、北溟子こと山本氏が批評して味わい、会の終わりには細かくちぎって捨ててしまわねばならなかった。事実、山本氏の遺書がしたためられたソ連ノートも、帰還を前にして没収されてしまった。
 アムール句会の仲間たちが、危険を冒してでも山本氏の遺書を遺族に届けたいと願ったのは、山本氏が強制収容所内にあって、虜囚に希望を与え続ける人だったからである。日本に戻ることなどありえず、自分たちは白樺の根元に埋められてしまう運命なのだと悲観する「白樺派」が多かった中で、山本氏は極限状況にあっても希望を語り続け、アムール句会を通して人々の心に光を与え続けたのだった。そうした北溟子山本氏がガンに冒されて帰国が望めなくなったとき、彼に遺書を書くことを提案した一人の友がいた。そして、彼らは山本氏が書いた遺書を読んだとき、自分ももし遺書を書くとしたら、このようなものを書き残したいと思うものだったのである。
 もう三十年も前に読んだヴィクトル・フランクルの『夜と霧』をふと思い出した。収容所の極限の生活を生き抜いた人は、身体強壮な人々でなく愛や希望をうちに抱いた人々であったというようなことが書かれていた。


*シベリア抑留について
 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20141009/p3