苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

祝福の祈りの威力

  最近、「神様は生きていて、祈りに応えてくださった!」という喜ばしい経験を聞きました。そのポイントとなった先日の説教の部分をお分かちします。
 山を動かす信仰の祈りのはずなのに答えられない。それを妨げているものは何か?そして、それを打ち破る祈りとはなんなのか?

    人のためのある課題が、祈っても私の祈りは答えられないなあ・・・と実はがっかりしている方がいるのではないかと思います。たいせつなことを書きます。

 

22,イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23,まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。24,ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
 25また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(マルコ11:22-25)

 主イエスはここで、答えていただける祈りの秘訣とその妨げとなることについて教えています。答えられる祈りの秘訣は、神を信じること、すでに得たと信じることです。
 しかし、この答えられる祈りを妨げるものがあります。25節にあるように、それは「恨み」です。恨みを抱えたままでは、どんな祈りも神にこたえていただくことはできません。ですが、自覚ないままに、実は恨みを抱えたままでの祈りというのをむだにし続けていることという場合が、結構あるのではないかと思います。

「Aさんが、あのことを悔い改めるように導いてください。」「Bさんが、あんな暴言を吐かないように作り替えてください。」「Cさんがああいう無茶なお酒の飲み方をしないようにたすけてください。」「D牧師がもっと伝道熱心になれますように」というような祈りの場合、祈っている当人は、「私はあの人が健康になり、対人関係でもトラブらないようになり、幸福になれるように、神のお役に立てるようにと願って、そう祈っているんだ。」と思っていて、恨みや怒りを抱いているとは思っていないからです。けれども、私たちはえてして「あの人が~なりますように」と祈るときには、「あの人」に対する怒りや不満や恨みを抱えている場合が多いのではないでしょうか。そして、そういうものを抱えていると、山は決して海に入りません。
 では、どうすればよいのでしょう。パウロは迫害者のために次のように祈りなさいと命じています。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)

 迫害者がいると、多くの人が「あの人が私を迫害しないように導いてください」とか、あまりにひどい状況だともしかすると「あの迫害者を滅ぼしてください」と祈りたくなるでしょう。けれども、そういう祈りには恨みや怒りがともなっています。恨みがともなっていると答えられません。(旧約聖書詩篇にはその種の叫びがあることは知っていますけれど、それは答えられたか?)

 Aさん、Bさん、Cさん、D牧師のための祈りは、この迫害者のための祝福の祈りを応用すればどうなるでしょう。「Aさんを祝福してください」「Bさんを祝福してください」「Cさんを祝福してください」「D牧師を祝福してください」と祈ればよいのです。自分の祈りの課題となっている、その人に神が祝福を祈るのです。「あの人を、あーしてくれ、こーしてくれ」と神様に注文するのではなく、その人を神の御手におゆだねして、「あの人を祝福してください!」と祈るのです。山が動いて海に入ります。