苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

私がキリストに出会ってしばらく

 1978年1月下旬の日曜日の朝、高校の同級生の萩原さんに紹介され改革長老教会東須磨教会という教会の前に立った。前回、暗くなってからクリスマス青年会に来たときには気づかなかったが、教会の看板に「日本改革長老教会東須磨教会」とあるのを見て、長いひげを生やしたじいさんがいるんかなあ、と想像したりした。

 会堂に入ると、背の高い眼鏡をかけた初老の白人宣教師がエゼキエル書の話をしていたがひげはなかった。礼拝前のバイブルクラスの時間だったのである。よくわからなかったが、ただ預言者というのは神のことばを託されたら、それを伝えないとえらいことになるというふうなことを言っていることだけはわかった。礼拝は四十人ほどの人たちが集っていた。何が話されたかは何も憶えていない。ただ、礼拝後、司会者から自己紹介を求められたとき、「私は今80%クリスチャンです」と答えた記憶がある。数日前の夜の出来事で、私は神を信じると決めていたからである。そのころ、増永牧師は療養中で礼拝には見えていなかった。先生は米国留学から帰って来られてから体調を崩して、半年ほど療養生活にはいっておられるとのことだった。集っている人々は赤ん坊、幼稚園生、小学生、中高大学生、壮年、奥さんたち、老人と幅広かった。また、白髪のリン先生、笑顔のかわいらしいパトリシア・ボイルさんという女性宣教師がいた。

 二・三度かよったころ、ボイル宣教師からジョン・ストット『信仰入門』という本をいただいた。キリストの復活から説き起こして、キリストが神の御子であることが説かれ、この方に従うべきであるというチャレンジが最後にあった。私は従うことを決心した。渇いた海綿が水を吸い込むようだった。その次の主の日だったろうか、久しぶりに増永牧師が礼拝に見えていた。まだ説教はなさらなかったが、礼拝後、にこにこしながら私に近づいてこられ、教会に通い始めてどうですか?と尋ねられたので、「はい。私は神様を信じることにしました。」とお答えした。すると、先生はマタイ福音書16章を開かれて、おっしゃった。「イエス様について当時人々は、預言者だとかエリヤの再来だとかいろいろ言いました。そのとき、イエス様は『ではあなたがたはわたしを誰だというのか?』とお尋ねになりました。水草君は、イエス様を誰だと言いますか?」と。「ぼくは、イエス様は神様の御子だと思います。」と答えたとき、増永先生は目を輝かせて、ほんとうにうれしそうにおっしゃった。「そのことを水草君に示したのは、人間ではなく、天の父です。」と続く聖書箇所を開いておっしゃった。

16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

  教会に通い始めてクリスチャンという人たちは食前にお祈りをするものだと知った。私はまだ自分が教会に通い始めたことを家族に話していなかったが、家で食事をするとき祈らないのはキリストを裏切るような気持ちがあって、下を向いて祈ることにした。食事を前にしてうつむいている私を見て、母は「どうしたん?おなかいたいの?」と聞かれたので、私はやむなく、「ぼく、教会に行くことにしてん。」と話した。後で聞いたことだが、母はこれを聞いて安心したのだという。祖母の死があり、大学に落ちて浪人生活に入ってからは他の一切は絶ってひたすら受験勉強をしていて、あまり話もしない息子を心配していたが、教会に行くような心の余裕ができたのだと思ったそうである。私自身は入試の向こうの研究者としての道を考えて、朝9時から5時図書館では受験勉強に専念したが、帰宅すると日本の古典を通読し、比較文学にも関心があったので、英書を読んだりしていたのだが。

 イエス様を信じた私に増永牧師は、岡田稔『カルヴィニズム概論』という本を貸してくださった。キリスト教有神論的世界観というものを教えている本だった。受験勉強のかたわら自宅ではその本を読んで大学ノートにその趣旨をメモして行った。今考えると初心者に薦める本でないように思われるが、当時の頭でっかちの私のような学生にとっては、必要な本だったのだろう。先生は、4月になれば神戸を離れてしまう私が行った先でリベラルな教会に行って、信仰を失ってしまうことを恐れておられたので、この本とかメイチェン『キリスト教とは何か』という本を私に紹介なさったのだと思う。だが、私はただ知識量を膨らましてゆき、「知識は人をたかぶらせる」というコリント前書のことばどおりになっていってしまい、大学に入ったころには、まだ聖書通読すら終えていないのに、愚かしいことに「ぼくは神の栄光のために生きているカルビニストである。」と、他を見下すようになってしまっていた。今思えば赤面の至りである。

 1978年4月、大学に入って、教育原理という教職課程の大教室での授業があった。教授の話を聞いていて、「教師が自分の生きる目的もわからないのに、どうして教育ができるのですか?」というど真ん中直球の質問をしたような憶えがある。先生がなんと答えられたかはおぼえていない。その授業の休憩時間、石上俊雄くんという同級生とバルコニーに出て話をした。「石上君は何のために生きているんだ?」と聞いたら、彼はしばらく考えて「俺は俺のために生きている」と答えた。それで「ぼくは、神の栄光をあらわすために生きているんだ。」と昂然と言い放った。そして教会においで、と誘った。今考えると、青臭かったと思うが、それから十数年後、三十歳を過ぎてから、石上君から電話がかかってきて、「水草。俺、洗礼受けてクリスチャンになったよ。」と話してくれた。私の乱暴な伝道をも主は無駄にはなさらなかったのだった。

 イエス様を信じた当初、とにかく傲慢だった。今振り返れば笑ってしまうほどマンガ的に傲慢だった。しかし、四か月後、私はそれがとんでもない勘違いであったということに気づかされることになる。

 大学に入った当初、私は寮の近くにあった新しい会堂の教会を三度ほど訪ねてみたが、キリストの処女降誕は信じていないようだし、説教は聖書と離れたお話なので、だめだなあと感じていた。これが増永先生が心配していた自由主義キリスト教というのか、と思った。そんなある日、同学年の中に白石君というクリスチャンがいるという噂を耳にした。私は大学の本屋で彼を見つけて声をかけてみた。後日、彼が私に教えてくれたのだが、「はじめて水草が本屋で声をかけてきたとき、こいつ統一教会か、と思ったわ。なんかひやーっと寒いもんを感じた。」そのころ、私は統一教会でなく「天上天下唯我独尊カルビニスト」だったのである。白石君に誘われて、私は土浦めぐみ教会に行くようになった。その後、土浦の教会に通い始めても、最初は違和感があった。祈りの途中で「アーメン」という人がいるとか、賛美歌が詩篇歌でないとか、そういうことにいちいち心の中でけちをつけていた。だが、個人生活では神戸の増永牧師に聖書を読んでは、週に二通くらい手紙を出しては返信をいただくという生活をしているなかで、私の聖書と神学に関する知識の基礎は据えられていった。大学では、国文学者になるつもりだったので勉強をし、また、当時休眠状態だった聖書研究会を白石君と再開しようかということになった。

 夏休みがやって来て、私は帰省することにした。神戸の父母に伝道をしなければならないと張り切っていた。父が寝ようとする枕元に正座して、「お父さん、お母さん、ぼくらはみんな神様の前で罪があるねん。わかる?」とやったのである。私は今も感心するのだが、傲慢の極みの息子の父と母は、実に謙虚な人たちだった。こんな若造の息子の伝える聖書のことばを、うんうんとしっかり聞いてくれたのである。私は一年後洗礼を受けたが、父母はその一年後に東須磨教会で洗礼を受けることになる。

 夏休み中、東須磨教会では六甲山のロッジで一泊修養会を催した。その修養会はなんともあたたかな雰囲気の会であった。肩ひじ張った、唯我独尊のカルビニストなど私以外誰もいなかった。そんなわけで、私は聖霊のお取扱いを受けることになった。聖霊は「おまえはとんでもなく傲慢だ。その傲慢という罪のために、主イエスは十字架にかけられたのだ。」と私に示されたのだった。人の主な目的が「神の栄光のために生きる」事であるのは事実なのだが、そのように生きているつもりになって思いあがって人をさばいている、この私の傲慢という罪のために、主イエスは十字架で死んでくださったのだということがわかったのだった。涙が止まらなかった。その悔い改めについて、教会の先輩である山口さんに話にいったが、怪訝な顔をしていらしたのをおぼえている。

 夏休みが明けて、大学に戻った。後日、白石君が話してくれたのだが、「夏休みがあけて、水草に会って、ああ変わったな。何があったんかな、と思った。これで一緒に聖書研究会やっていけると思った。」とのことだった。その後、洗礼までの道のり、洗礼を受けて一か月後の罪の自覚とキリストの十字架の迫りと献身の表明、教会学校での熱心な奉仕、大学の専攻を国文から哲学に転じたこと、奉仕に熱心になるあまり知らずしてまたも傲慢になってしまったことと朝岡茂牧師の叱責、東京基督神学校への進学と父の召天、朝岡茂牧師の召天・・・といろいろなことがあった。あのわずか数年間は激動だったなあと今にして思う。