苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライト 玉石混淆

  近年、「日本の」福音派の中でN.T.ライトのブームとなり、本が次々に訳されている。しかし、弊害もあるようで、ある友人に聞いたのだが、ライトの読者である若い伝道者の内には、「ライトを読んで『イエス様の十字がはあなたの罪にためでした。』と語れなくなった」という声も聞くというから、事態は深刻である。そこで、ここに少々メモしておきたい。彼の聖書理解は玉石混淆であると見えるから、玉と石を識別する必要がある。ライトは、聖公会英国国教会)の主教である。聖公会は、昔からローマ教会とプロテスタントの中道via mediaを標ぼうしている、もともとハイブリッドなのだ。

 

1.キリスト観には自由主義神学の影響

 キリストのからだのよみがえりも、キリストの再臨も信じているライトは合理主義に染まった神学者ではない。超自然主義の信仰を持つキリスト者である。では、彼の教えが合理主義ないし自由主義神学の影響を受けていないかというと、そうでもない。そこがややこしい。

中道なのだ。

(1)ライトの説

 ライトはイエスは徐々に自分がキリストであるという自覚を深めていったということを書いている。シュヴァイツァー『イエス小伝』にこうしたイエスの意識の変化といった記述があって、自由主義神学の人々がいかにも言いそうなことである。明治の終わりに書かれた波多野精一『基督教の起源』の第二章「イエス」は「思想史的観点から」イエスのことを説いている名品だが、その意味は「神の超自然的直接的介入がないことを前提としての観点」という意味である。

 自由主義神学の聖書学者の認識の枠組みは、理神論者の世界観と同じである。つまり、現象界・歴史に神の超自然的介入はないという前提で聖書を読むのである。したがって、物事は自然的過程で徐々に成っていったと見る。創造も徐々に自然的過程で生じたし、イエスのキリストとしての自覚も徐々に自然的過程で生じたという考えである。そういう前提で行われるリベラルな聖書学の土俵に上がって物を考えるうちに、ライトはその影響を受けたのであろう。自由主義保守主義の中道なのだ。

 

(2)評価
 しかし、福音書を読めば、イエスは12歳のとき、すでに神の御子としての意識を持っていたことはあきらかだし、ガリラヤ宣教をスタートした当初からご自分がイザヤの預言したメシヤ、ダニエルが預言した「人の子」であることを自覚していたし、また、ご自分が罪をゆるす神的権威をもつものであることを認識していたことも明らかである。少年期のイエスの記事も、ガリラヤ宣教の始まりのころの記事も神の言葉であると受け入れている者にとっては、イエスが徐々にメシヤ意識に目覚めて行ったというふうな言説は受け入れられない。

 

2.ライトの終末論は可と不可

(1)ライトの説

 ライトは、本筋としての聖書の世界終末論は、キリストが再臨し、そのとき信徒は再臨の主を出迎えに行き、また、地に戻ってきて、地をみこころに従って治めるという。地に戻るのであるから、今の世において私たちは主の前に責任的に生きるべきであるという。

 ライトが反論したい相手はふたつある。一つは、死んだら肉体を離れて天国に行くというのは、ギリシャ的な霊肉二元論から出ているという教えである。もう一つは、主が再臨したら、聖徒は主のもとに携え挙げられて以後ずっと天にいるのだから地上のことはどうでもよいというディスペンセーション主義の携挙である。

(2)評価

 本筋としての聖書の世界終末論は、キリストが再臨し、そのとき信徒は再臨の主を出迎えに行き、また、地に戻ってきて、地をみこころに従って治めるというのはその通りである。再臨の主に「会う」というテサロニケの手紙第一4:17のことばapantesisは、たしかに「出迎える」という意味をもつことばであって、福音書で花婿を出迎える侍女たちの箇所(マタイ25:1,6)と、使徒の働きの末尾(使徒28:15)でローマ教会の人々がパウロを出迎える箇所とで用いられている。また、出迎えて地に戻ってくると理解すると、黙示録の終わりで花嫁のように整えられたエルサレムが天から下りてくるという記事とも調和する。これは玉である。

 もっとも、この「出迎え」説はライトのオリジナルではない。G.E.Laddが『終末論』にすでに書いているし、昔からあるグリムandセイヤーの辞書を見ればその連関はわかる。だが、気づきにくい所。これは「玉」である。こちら↓参照。
 https://biblehub.com/thayers/529.htm

 だが、「死んだら肉体を離れて天国に行く」ということも、ピリピ書1章20-26節あたりでたしかにパウロが言っていることである。これを伝統的神学では「中間状態」と呼んできた。つまり主が再臨して最後の審判が行われるまで、聖徒の霊は主のみもとにあるということである。聖書は神のことばであると信じる者は、これをギリシャ的だといって否定し去るべきではない。ライトは否定はしないが、ほとんど無視している感じである。この態度は、石、かな。

 また、今の世の次の世との連続性をライトは言い過ぎであろう。黙示録20:21「地と天は逃げ去って、あとかたもなくなった。」という記述にせよ、ペテロの手紙第二の3:12記述にせよ、今の世の滅びと次の世の新しさを強調していることは明白である。キリストの復活のからだが、キリストが十字架にかかったからだであったことは事実だが、新しくなっていて非連続であったのと同じく、今の世と次の世は連続性はあろうが、福音書では非連続的であることが相当に強調されている。

 

3.ライトの福音理解―贖罪観と義認論

 これは紛らわしいので注意して読んでいただきたい。

(1)ライトは、贖いについては王の勝利(古典)説である 

 ライトは、罪を処理して神と人類との契約関係を守るために、イエスは死と復活によって罪を処理したという。このイエスを神は義と認めた。そして代表であるイエスの共同体に属する者たちも、義と認められるという。一見したところ、彼は代償的贖罪を教えているようだが、実はそうではない。ポイントは「代表representative」という言葉である。彼は、代理・身代わりsubstituteということばを用いないのである。ときに用いても好まない。

  彼のいう「罪」というのは信徒一人一人の罪ということでなく、むしろなにか悪魔、サタンと置き換えられるような悪しき力である。悪魔にキリストが勝利したから、キリストに属する民も悪魔に勝利するというのである。ライトにおいては、個人個人が自分の罪を神の前に認め悔い改めて、キリストが私の罪のために死んでくださったと感謝するという代償的贖罪・刑罰代理penal substitutionに基づく信仰義認はない。

 

(2)ライトによれば、義認とはキリストの契約の民としての認定を意味する

 ライトによれば「義認」は、もともと「法廷において裁判官である王が被告を無罪と宣告すること」を意味したが、1世紀のユダヤ教では「終わりの日、神がイスラエルをご自分の民と認定すること」を意味するようになっていたとする。そして、パウロユダヤ教徒だったから、ガラテヤ書やローマ書では、そういう意味で「義認」ということばを使っているはずだと主張する。対悪魔勝利説との関連でいえば、終わりの日、死と復活をもって悪魔を征服した代表者王キリストの契約の民として認められ復活することが、義認だというのである。

  

(3)評価

  ローマ書1章から5章11節までは、個々の罪人が、キリストの宥めのささげ物(ローマ3:25)を根拠として、キリストを信じる者が、神の法廷において義と宣言されることを教えている。またそのことによって神の義が表されたという。

 次に、ローマ書5章12節から8章にかけては「罪(悪魔)」に対して死と復活をもって勝利した代表者キリストに属する者たち、神の子どもとして生きることが教えられている。

 ローマ書だけでなく、新約聖書全体がキリストによる救いには、この二面があることを教えている。へブル書は、キリストは大祭司として「多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげ」、その血をもって「私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ」ると教えている(ヘブル9:14)。同時に、もう一方で、ヘブル書はキリストはご自分の死をもって悪魔を滅ぼして、我々を解放したとも教えている。

 ヨハネ黙示録の、神とともに王座に着くキリストは、屠られた小羊(黙示5:6)、つまり、祭司として代理に刑罰を受け、王として悪魔に勝利して復活したお方である。

 つまり、聖書は代償的贖罪を根拠とする義認と、悪魔から解放しキリストの支配に移されること、これら二面を救いとして述べているが、ライトは後者の観点で前者を無理に読み込もうとしているところに無理がある。これはあきまへん。ライトに先立つサンダースは、ローマ書解釈にあたって、代償的贖罪を根拠とする義認と、「罪」(悪魔)から解放しキリストに参与させるという2つの面があることを認めている点で正確である。前者(代償的贖罪と義認)はパウロの非核心的部分であり、後者(キリストへの参与)がパウロの核心部分だと主張しているのは、サンダースの勝手な主張で、いただけない。

 宗教改革者たちは、祭司として罪の償いをし、王としてサタンから我々を奪回したキリストによる贖いの両面を把握していた。ルターはこの上なく明瞭に代償的贖罪(刑罰代理)を説いたが、同時に、悪魔に対する万軍の主なるイエスについて「神はわがやぐら」で歌い上げた。カルヴァンもその信仰問答で、両面を述べている。『ジュネーブ教会信仰問答』「問答73 三日目によみがえられたことであります。このことにおいて、彼は死と罪との勝利者として御自らを表されました。なぜならば、そのよみがえりによって、彼は死を滅ぼし、悪魔の鎖を断ち切って、その力をことごとく打ち砕かれたからであります。ハイデルベルク信仰問答も同様である。

 私たちは、新約聖書に明示され宗教改革者たちも正確に捉えた、①代償的贖罪と②悪魔から解放しキリストの支配に移されること という二つの面のうちの①だけを強調し、②を十分に理解できないできたのではなかろうか。ライトは、②によって無理やり①までも読もうとして混乱し、読者も混乱させられているが、②の面を私たちに思い起こさせたという限りでは意味あるものである。

 

4 その他、教派の流れについての感想

 ライトは英国国教会聖公会)の主教である。その背景を勘案して、彼の主張を理解する必要があるだろう。英国国教会宗教改革を経験したことがなく、歴史的にはピューリタンイングランドにおける改革派信仰者)を弾圧していた教会であるから、信仰義認論と恩寵救済主義はもともとなじまない。ライトが、ある改革派系の神学校での講演で、自分は(ピューリタニズムの産物である)ウェストミンスター基準を知らないとか、契約神学を知っていたら自分の物語神学は必要なかったと言ったと伝え聞いたことがあるが、それはあながち謙遜やリップサービスではないのかもしれない。

 実際、宗教改革の伝統の中で契約神学や世界観としてのキリスト教をもともと持っていた改革派系の神学を学んだ人々の多くは、義認論がなんだか妙だなということ以外、ライトにはほとんど新鮮味を感じないようである。だが、宗教改革の遺産にほとんど関心を持ったことがなく、聖書のみ、十字架の福音のみを標ぼうしつつ実は不十分さを感じていた敬虔主義ないしリバイバリズムのアルミニウス主義の流れの中にいた人々には、とても新鮮味があるようである。宿敵(?)であった改革派神学の軍門に下らないでも、世界観としてのキリスト教や契約の観点を得ることが出来そうに見えるからである。ただし、ライトの新味は、改革派神学が創造論的に世界観としてのキリスト教を提供したのに対して、終末論的にそれを試みているところにある。

 従来改革派神学が世界観としてのキリスト教や契約神学というものを持ちながら、改革派圏内でしか知られず他派への広がりを持ちえなかったのは、残念ながら、アルミニウス派と改革派が長年にわたって没交渉的であったからであろう。近代になって自由主義という共通の論敵を持つようになったので、互いにさすがに異端呼ばわりしなくなったけれども、では相手の立場の神学を謙虚に学んで来たか、相手にもわかるように聖書まで戻って表現してきたかというと、そうではなかったろう。ライトは教義学者としてでなく、聖書学者として世界観としてのキリスト教や聖書における契約理解の重要性を説いたので、アルミニウス主義の流れの人々も近づきやすかったのであろう。改革派神学の人々に申し上げたいのは、改革派サークル内の権威ある神学者がこう言っているということでとどめないで、聖書まで戻って話をするこのとたいせつさということである。聖書まで戻れば、広く対話ができるのである。

 ライトが国教会の主教という立場にあることから推測すれば、クリスマスとイースターと葬式にしか教会に来ないような信徒たちに対して、個人主義はダメだよ。キリストを信じ義とされるというのはキリストの契約共同体のメンバーとなることなんだと教えたい。「イエス様信じたら死んでも天国」という安易な考えではだめだ。クリスチャンとして今の世でもしっかり生きる任務があるんだと言いたいのであろう。そういうことには牧師として共感をおぼえる。それが彼の著書に見え隠れする気がする。