苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

お金について(1)(2)

 『舟の右側』という雑誌に書いたことです。

(1)
 信州に住んでいたころ、百三十坪の農地を借りて、十年以上菜園を営んでいた。これほど広いと野菜が取れすぎて、家族では食べきれず、人にあげようということになる。そこで、「キュウリ、どうですか?」というと、「うちもキュウリはいやというほどあるよ。ところで、ナスはいらないかい?」と言われて、「いえ、ナスは売るほどあります。」と答えて、顔を見合わせることになる。物々交換は双方の必要と所有が一致した場合にのみ成り立つ。しかも、貰い手がないままに過ごしているうちに、ナスもキュウリも腐ってしまう。
貨幣は、物々交換の不便を解消するために工夫された。まず、誰もが欲しがるもので、時による減価がキュウリより遅いものとして米や塩が貨幣として用いられた。さらに時による減価が少ないものとして、金属貨幣も用いられるようになる。さらに、国家の信用を背景としてそれ自体としては無価値な紙幣が用いられるようになる。
 それで貨幣はほかの被造物に比して、特異な性質を帯びている。第一は、貨幣が物の価値を決めるということである。メモにも鼻紙にも使えない紙幣は、物としては無価値であり、本来、貨幣と交換する物にこそ価値があるのだが、錯覚してしまうのである。それで、愚かな人は「Aさんがくれた贈り物は三千円だったけれど、Bさんの贈り物は六千円だったから、Bさんの私に対する好意はAさんの二倍だ。」と「好意」を数字に換算してしまう。イスカリオテ・ユダが、マリヤが主イエスの頭に、ナルド油を注いだとき、瞬時に「これを売れば三百デナリ!」と換算したのは、彼もまた何でも貨幣に換算する病気にかかっていたからだろう。ほんとうの意味で、さまざまの物事の価値を定めるものさしとはなんであろう。誰であろう。それは、万物の創造主にして裁き主である神ご自身以外にはない。我々は貨幣に、神的な性質を付与してしまっている。
 第二に、貨幣には時の経過とともに価値が減って行かないで価値が増していくという、被造物的でない特異な性質がある。ふつう被造物というものは、時の経過とともに劣化し、価値が減っていくものである。キュウリやナスは時の経過とともにすみやかに劣化して価値はゼロになってしまう。米は減価の速度が遅いので、これを倉に蓄える人々が現れて持つ者と持たざる者との格差が生じた。しかし、米も高級車も高層ビルも、時間とともに劣化して価値が減ってゆくものではある。だが、利子という仕組みが社会に通用することになったおかげで、貨幣は時間がたつにつれて価値を増していくという不思議な性質を帯びるようになった。そうすると、ますます貨幣を蓄えようという意識が働く。貨幣は経済における血液であるから循環しなければ、経済は動脈硬化を起こし不景気になってしまうが、大企業が下請けや労働者に労働に見合った十分報酬を支払わず、莫大なお金を内部留保するのは、貨幣というものが寝かしておくだけで増えていくからに他ならない。このように貨幣には時が経過しても減価しないどころか増価していくという、被造物的でない特異な性質がある。
我々は、貨幣に、神のように物事の価値を定め、しかも、時とともに価値を減じて行かず増価していくという被造物的でない性質を与えてしまっている。その危険性を思うとき、主イエスがことさらにマモニズムに警戒せよとおっしゃった意味がわかるだろう。

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)


(2)


 前回、聖書の観点から貨幣の特性ゆえに生じる問題を二つ指摘した。一つは、人は、神に代えて、金銭を物差しとして物事の価値を
測るようになってしまうということである。
ユダ王国イスラエル王国が滅ぼされた主な理由は、偶像崇拝の罪ゆえであった。聖書にはダビデのように姦淫と殺人というひどい罪を犯しながら、神のあわれみを受けた人々がいる一方で、金銭欲の問題で滅びてしまった人々が意外と多い。エリコ攻略の時に盗みを働いたアカン、初代教会のアナニヤとサッピラ、そして銀三十枚で主を売ったユダ。なぜ彼らは滅びたのだろうか。それは恐らく金銭に心奪われることは、偶像崇拝だからである。実際、主イエスは、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ六・二十四)と警告なさった。
 サタンは金銭を餌として人の魂を釣る。主は、拝金主義という罠に勝利する秘訣を教えられた。「自分の宝は、天にたくわえなさい。(中略) あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ六・二十、二十一)人の心はお金についていく性質を持っているから、あなたのお金は神に献げるなり、貧しい人に施すなりして天に蓄えておけ。そうすれば、あなたの心を天に置くことができるというわけである。
貨幣のもう一つの特徴は、時とともに減価して行く他の被造物とちがって、永続性をもっていること、さらには利子ゆえに時と共に増価していくという奇妙な性質を持たされているということである。
 申命記に次のようにある。「 外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。」(申命二十三:二十)この戒めのゆえに、中世まで、キリスト教徒同士、またユダヤ教徒同士が、利息をつけた金銭の貸し借りをすることは禁じられていた。
しかし、宗教改革者は利子について聖書を釈義しなおして、高利を取るのは非合法であるが、貸してやったお金で事業をして便益にあずかった者から五パーセント程度の利子を取ることは合法であるとした。利子のシステムは経済活動を活性化し、近代資本主義発展の基礎のひとつとなった。なぜなら、もし利子が得られるならば、儲かるアイデアがある人に対してお金を貸そうという人もいるし、借りた人も利子がつくとなればなるべく早く返済しようということにもなるからである。
 だが他方で、現代は利子の問題点も露わになってきた。一つは前回指摘したように、経済における血液である貨幣であるのに、利子がつくゆえに蓄えたくなってしまい、そうすると、経済が停滞するという問題である。解決策として提案され、ある地域では実践もされているのが、時と共に他の被造物と同じように減価する貨幣である。月頭一万円だったものが、月末に九千円になるならば、人も企業もお金を使うようになり経済は活性化する。
 利子のもう一つの問題点は、利子は経済の無限の成長を強制し、それは有限な自然環境に負荷をかけることになるということである。仮に人が年利五パーセントで一億円借りて事業をするならば、彼は利子を返すためにだけでも最低五パーセントは成長しなければならない。こうした経済活動の総体が国や世界規模の経済であるから、経済が無限の成長が強制されているという現実は、本質的に有限な自然環境の限界に触れてくる。
 私たちの生きているこの二十一世紀、もう一度、利子について聖書から考え直すべき時期が来ているのかもしれない。