苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライトについて、遠藤勝信先生の講演を聞いて 

今週月曜、火曜、北海道聖書学院では、遠藤勝信先生をお迎えして、NPPの特にN.T.ライトさんの説についての講演をしていただきました。
 丁寧に慎重に紳士的になさった遠藤先生の講義の前半を、大雑把すぎる方法で超簡潔にまとめてメモしておきます。(まとめすぎなので、遠藤先生の意に沿わないところがあると思うので、文責はどこまでも水草にあります。)
 ライトによれば、ブルトマンはヘレニズムとの類似性から新約聖書を読んだが、それは見当違いであり、むしろ1世紀のユダヤ教との類似性からパウロは読まれるべきである。(それには、一理はある。)
 そこで、ライトは次のように考える。パウロはもともと1世紀のユダヤ教の中にいたサウロだったのだから、1世紀のユダヤ教との関係性・類似性からパウロ神学は理解されるべきである。ところで、1世紀のユダヤ教では、義認とは神が未来の世の終わりにイスラエル民族を神の民と認定することであるとしていた。したがって、パウロがローマ書などで義認というのは、未来のこと共同体的なことであって、ルターが解釈したように、キリストを信じた者は今、ここで神の前に義とされたという個人のこととする義認理解は誤解である。
 だが、ライトがその説の根拠とする箇所の釈義は、前後の文脈からして、ことごとく無理がある。それは、聖書のテキストよりも、1世紀のユダヤ教の教理を優先するという読み方のゆえである。また、「1世紀のユダヤ教」とライトはいうが、実際には地域によって相当の多様性があった。
 結局、ライトは、1世紀のユダヤ教との類似性に注目しすぎて、1世紀のユダヤ教の色メガネでパウロを解釈することによって、パウロを正しく読めていない。

以下、<水草によるコメント>
 神は啓示を与えるにあたって、これを真空の中にではなく、ある歴史的文化的文脈のことばを道具としてもちいられる。だから、その文脈との類似性と、その文脈との区別性の両者をわきまえる必要がある。そして、神の啓示としての独自性というかメッセージは、当然、類似性のほうではなく区別性に現れる。しかし、ブルトマンはヘレニズムとの類似性に、ライトは1世紀ユダヤ教との類似性に拘泥しすぎて、つまり、啓示のために用いられた道具にこだわりすぎて、新約聖書自体の啓示・メッセージを見誤っている。聖書外資料に重点を置きすぎると、肝心な聖書テクストを読み誤るのである。

<感想>
 用意周到な遠藤先生の講義を聞いて、「霧が晴れるような思いがした」というのが多くの人たちの感想でした。翻訳されたいくつかのライトの本を読んだ人たちの多くは、「なんでライトはこんなことをいうのだろう?」と疑問をもっていたけれど、その背景がわかったという意味です。
 しかし、聞いた人たちのうちにもう一つ湧いてきた疑問は、「それでは、なぜこのようなライトの説が、異邦人である人々に対して人気を博すのだろう?」ということでした。つまり、パウロは異邦人への使徒であるはずなのに、ライト説ではパウロユダヤ人への使徒みたいだからです。
 私がライトを好む方たちの文章をいくつか読むかぎりでは、三つ理由があるような気がします。
 第一に、高位聖職者であるにもかかわらず会う人ひとりひとりを大切にするライトさんのフランクな人柄・広い教養と豊かな表現力ということ。
 第二に、「神・罪・救い」という伝道命令のみを強調して、文化命令を教えてこなかった(改革派系以外の)福音派の人々にとっては、王としてのキリストを知ることが福音理解の幅を広げるということ。
 第三に、改革派色の強い契約神学には近づかなかった人々にとっては、ライトさんが示した契約を軸に聖書全体を把握する展望が新鮮である、ということ。


*もう一つ感想。
 これまで私が読んだことのある、ライトのパウロ理解に批判的な方たちは、ルター派や改革派の教義学を背景とした神学者たちだったので、議論がすれちがっているように感じましたが、遠藤先生は新約聖書学者・釈義学者で、1世紀のユダヤ教を知る人であり、聖書釈義を丁寧にする人なので、しっかりと議論が噛みあった上での批判になっていると感じました。
 NPPが1世紀のユダヤ教の観点からの試論として学者の間の説として論じられている分にはいいのだけれど、これがライトさんの表現力や人柄で一気にポピュラーになってしまったのは、いかがなものかというふうに感じていらっしゃるとのことで、私も同感です。
 パウロ神学の、1世紀ユダヤ教(多様性があるそうですが)との類似性だけでなく、区別性をしっかりと読み取るならば、きっとそこに福音の啓示の光が輝き出るでしょう。


*ああ、もうひとつ大事な情報。
ライトはたくさんものを書きすぎているので、彼の全貌がわからないとよく言われますが、遠藤先生がライト先生自身と親しく交わった中でうかがったところでは、『使徒パウロは何を語ったのか』に書いたことが、その後の微調整はあるにしても、今も基本的にライトさんの主張であると明言なさったとのことです。