苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

十字架のことばは・・・(1)道徳的感化説の誤り

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1章18節)


 キリストの十字架の死は、私たちが神の御前に犯した罪に対する罰を身代わりに背負うためであった。しかし、人間はこの聖書の明白な教えをなかなか受け入れられない。ある婦人が「そんなことを認めたら、私が神様の前にとっても悪い人間だということになるではありませんか」と言われた。人間の内に潜むプライドが、キリストの懲罰代理を受け入れさせないのである。
 では、こういう人々は、キリストの十字架の死について、どういう説明をしたがるのか。神は愛であるから、人間が神のもとに帰るために必要なのは、人間が己の罪を悔いる事だけである。人は、キリストに表された神の愛に感化されて、自分に愛がなかったことに気づき、悔いて神への愛に生きるようになる。そのように方向転換をして愛に生きているその行動が、その人の贖いとなるのだと。教理史の教科書ではたいてい、この説は道徳感化説と呼ばれて、唱え始めたのはアベラルドゥスだとされるのだが、アベラルドゥスの書物の中には、キリストの死が犠牲死であったと述べているところもあるから、通説は必ずしも正しいとは言えない。
 道徳的感化説は、16世紀の反三位一体論者ソッツィーニ、18−19世紀の自由主義神学の祖と位置づけられるシュライエルマッハーも同じであり、現代までリベラルな神学者たちは同じである。現代のリベラルな司祭の発言例を挙げておく。『殉教と殉国と信仰と』(高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著、白澤社発行・現代書館高橋哲哉は非キリスト者であるがキリスト教に一定の理解を示す学者で、国家主義に対して警鐘を鳴らしている人物。対話者の森一弘はローマカトリックの司教。高橋はキリストの十字架の死を犠牲死とすることが、国家に殉ずる思想につながることに警戒心を示し、キリスト教神学においてキリストの死を犠牲でないとする議論があること(つまり道徳感化説)をとりあげる。すると、森司教は高橋に同調して福音書にはキリストの死を犠牲やいけにえとする言葉はないと発言し、さらに、キリストの死を犠牲とする考えは、神観を歪めるのだと発言する。

高橋:(前略)キリスト教で殉教が語られるときに、イエスが十字架上で刑死したこと、これを「犠牲死」ととらえるのかどうかが問題になるのではないでしょうか。従来は、これを犠牲死と見て、見習うべきモデルとする見方が強かったのではないか。(中略)しかし、このイエスの死を犠牲死ととらえる見方そのものについて、キリスト教思想の中でも議論はあったと思いますが、もっときちんと検討しなおす必要があるのではないでしょうか。
森:(前略)結局、キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまうんです。
高橋:やはり、そう思われますか。
森:キリストの十字架を「犠牲」というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムス(1033-1109)とか トマス・アクィナス(1225-1274)あたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。ところが、キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。(中略)ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。ですから、そういう意味で、現代はもう一度、真正面から神理解、そしてキリスト教の教義理解に取り組まなければならないと思っております。
(以上、98-99ページ)


 しかし、森氏の福音書に関する主張は明白な誤りである。福音書においてイエスは言われた。

マルコ10:45 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マタイ26:28「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
ヨハネ1:19「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」
ヨハネ10:14,15「 10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。 10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」


 書簡を見ても同じである。ヘブル書はレビ記の贖罪犠牲の律法を背景として全巻挙げて、御子イエスの死が贖罪のための犠牲死であったことを語っている。パウロもペテロもヨハネも同じように発言している。

ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
1ペテロ1:18、19 「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
1ヨハネ2:2 「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」
ヨハネ4:10 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」


以上に見るとおり、「福音書の中にキリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません」というのは、明白な誤りである。むしろ、森司教は「キリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は、福音書パウロ書簡、ペテロ書簡、ヘブル書にも、そして背景である旧約聖書にも満ちているが、自分は受け入れがたい」と言うべきであった。
 関連して、森司教は、「キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまう」と主張するが、それは言い換えれば、「罪の賠償のために犠牲を要求するような聖書の神観はゆがんでいる」ということである。森司教の理想とする神観とは、罪の代償として犠牲を求めず、善悪あわせ呑む無限抱擁するような人間中心主義者好みの「やさしい汎神論的神」なのである。この種の神観は、16世紀のソッツィ−ニと、その後のシュライエルマッハー以来のリベラル神学の典型的な主張である。彼らにとって十字架のことばは愚かなのである。

冒頭でキリストの十字架が自分の罪であったと受け入れられなかった女性は、ある日の説教において神の前における自分の罪を明白に示され、悔い改めてキリストを信じるにいたった。鮮やかな回心だった。今から25年ほど前、神が、駆け出しの伝道者であった私に見せてくださったことである。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力なのです。」(1コリント1:18)