苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の御名の啓示の時期

「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」(出エジプト6:3)

 このように神はモーセに仰せられたが、はるか昔の出来事として、聖書は次のように言っている。

「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:26 むしろ、口語訳のように「主の名を呼び始めた」と訳すのが普通だろう。)

 このことは、聖書の読者ならだれもが確認できるし、聖書記者自身当然知っていたわけである。では、どういう意味で、神は出エジプト6:3のようにおっしゃったのかということである。セツの時代にすでに、その聖四文字の名は啓示されたのだけれど、アブラハム、イサク、ヤコブの時代には忘れられてしまっていたのだろうか。しかし、地の文だけでなく、神のことばにも、彼らのセリフの中に、【主】という名は折々でてきている。たとえば創世記15章。・・・では、出エジプト6章3節で、おっしゃられた意味はなにか?ますますわからない。宿題にしておこう。