苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「通信」の目的

 私は信州の南佐久郡で伝道していたときには、7000戸に信濃毎日新聞に折込で毎月「通信小海」を配布していました。22年間で393号まで出しました。昨春ここ苫小牧に引っ越してきて、昨年11月から「苫小牧通信」を出し始めました。苫小牧民報というのに入れてもらっています。今回で5号になります。
 毎回原稿を書いて大量の印刷をするには、相当エネルギーを要し、印刷代も折込代もかかります。苫小牧は人口が南佐久郡よりもずいぶん多いので、月刊でなく年6回発刊にすることにしました。何を目的に通信を出すのかを書いた文章をここに載せておきます。2016年11月号「国内宣教」巻頭言のものです。

 伝道とは何か?
                     

 兄弟姉妹の中には「さんざんトラクト配ったけれど。だれも教会に来てくれなかった。がっかり。」、「福音を聞かせたけれど拒絶された。しょんぼり。」という人たちが多いのではないでしょうか。それは恐らく<伝道とは滅び行く魂を救いに導くことだ>と考えているからでしょう。こういう伝道理解に立つと、「成果」が上がらないとがっかりし、もっと悪いことには、伝道が困難そうな地域では伝道する意欲が失せてしまうでしょう。
 私は神学校の伝道学で主の4つの大宣教命令を根拠として、伝道について少々異なる理解を教えられました。<伝道とは、第一に託された地域のすべての人に福音を聞かせることである(マルコ16:15、ルカ24:47、使徒1:8)。第二に福音を聞いて救われた人々を主の弟子として育てることである(マタイ28:19)。だから、まず託された地域のすべての人に福音を知らせることができたら、それでひとつの成功と考えなさい。主の声(福音)を聞かせれば、主の羊はそれ知っているので、ついて来た羊を弟子の群れとするのだ(ヨハネ10:3−5)。>と教わりました。この伝道理解に立てば、たとい多人数の教会であっても託された地域の人々にあまり福音を聞かせていなければ第一点について失敗しており、たとい少人数の教会であっても託されたすべての人に福音を聞かせることができているならば伝道における第一点について成功をしているのです。
 あるドイツの宣教学者が「人口三千人に対して一人の牧師が必要である」ということを書いているのを読んだことがあります。恐らく国教会における「教区」から発想した場合、このくらいの数字になるのでしょう。けれども、国教会を前提としなくても、伝道者が「神の御子イエスは、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださり、あなたが義とされるために三日目によみがえってくださいました。」と一人ひとりにしっかりと伝えようとすれば、三千人が限界なのかもしれません。
 私は、二十二年間、広い長野県南佐久郡人口二万五千人ほどの人々に福音を知らせるため、『通信小海』という伝道新聞を作って毎月七千部折り込みをしてきました。それで十分だとは思いませんが、少なくともこの地域の字が読める多くの人たちには、キリストの十字架の福音を知る機会を提供することができただろうとは思っています。
 この春から苫小牧市に遣わされて、さてどのようにして伝道しようかと考えたり祈ったりしているところですが、とにかく主に託されたすべての人に福音を聞かせ、悔い改めた人を主の弟子とせよという主のご命令に応えたいと願っています。


 「通信」の内容は、一つはヨハネ3章16節に要約されるようなキリストの福音そのものです。もう一つは、地元の人たちが関心を持ってくれそうな記事です。なぜ、こういう二本立てにするかといえば、後者は共通恩恵の器で、その器に特別恩恵としての福音を載せるためです。伝道とは共通恩恵の入れ物に、特別恩恵(福音)を入れて運ぶことだと、神学生時代に学びました。そして、共通恩恵は教会の社会的責任でもあると考えています。
 と、まあシンプルな理由と目的で「苫小牧通信」も出していきます。