苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ペテロとヨハネ

ヨハネ21:7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

 主イエスの弟子ペテロとヨハネは、互いに意識しあう関係にあった。双方ともにカペナウムの漁師出身であったが、ペテロのほうが年上だった。ペテロは、いつも自分が主イエスの一番弟子だというふうにふるまっていたが、ヨハネは自分は食事のときに、主の右側に座っていたということを書いて、「実は自分こそ・・・」と言いたげである。ペテロは直情径行な人であったが霊的洞察力には乏しかった印象があるが、ヨハネの霊的洞察力はとても冴えていた。もぬけの空になっていた主イエスの墓を見て、ペテロは何が起こったのかさっぱりわからなかったが、ヨハネは主の復活を悟った。ガリラヤ湖上から岸辺に立つ人影が主イエスであることを察知したのはヨハネであり、即座に服を着て湖に飛び込んで泳ぎだしたのはペテロだった。
 おそらくペテロは若いヨハネに対して、ライバル意識、少々の劣等感を持っていたのであろう。そうそう、マグダラのマリヤの証言を聞いて、主が葬られた墓に走っていったとき、ヨハネのほうが脚も速かったし。でも、ヨハネは遠慮して先輩を待っていて、先に墓に入らせたのだった。
 性格の不一致の典型であるが、主イエスはどちらの弟子をも愛され、いずれをも用いられた。こういうことが大事なのだろう。