苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖霊

14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

 弟子たちとの別れのときが迫っていた。しかし、主イエスが弟子たちをもとを去り、父のもとに行くならば、主は父のもとから聖霊を送ってくださる。そして、聖霊が来られるときには、御子を見たものは御父を見たように、聖霊を受けた人にはイエスと父の臨在が伴う。だから、聖霊を受けた人は、父と子との交わりを経験することができる。結局、父と子がわかるのは聖霊によるのである。
 

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。 16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

 父のものは御子に渡されており、御霊は御子のものを受けて、私たちに知らせてくださる。子は父の栄光をあらわし、御霊は子の栄光をあらわす。私たちが、イエスが神の御子救い主であるとわかることは、人間の力や説得力によるのではない。御霊のわざなのである。はるか遠いパレスチナという地に、弥生時代とひとしい時代に生き、十字架に処刑されよみがえった一人の男が、私の罪からの救い主であるということは人間の知恵では納得できようのないことである。だが、それを納得し信じることができたのは、聖霊のお働きにほかならない。ありがたいことである。だから、あの人にも、この人にも御霊を注いでくださいと祈ろう。あすは主の日、聖書が解き明かされるとき、今まで悟りえなかったあの人、この人のうちに働いて、ぜひ心の耳を開いてくださるようにと祈る。