苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

水と御霊によって

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

 民の指導者であったパリサイ人ニコデモとの問答の中で、主イエスがおっしゃった大切な一節。「水と御霊」と言いながら、このあとに展開する主の説明は、御霊についての話のみである。ということは、水についてはすでに了解事項であったことを意味している。先立つ1章26―34節、後に続く3章22節以降に洗礼者ヨハネについての記述があることからすれば、自然な理解としては、「水」とは水による洗礼を意味していると取るのが穏当である。バプテスマには水だけでなく、御霊が伴わなければ、人は神の国に入ることができない。ヨハネは水でバプテスマを授けていたが、主はそこに御霊を注いでくださることによって、水と御霊によるバプテスマを施してくださる。「律法はモーセによって与えられ、恵とまことはイエス・キリストによって実現したのである」(1:17)という、ヨハネ福音書の主題のひとつにかなっている。
 ヨハネ福音書は、ときどき異邦人を読者として想定して書かれたといわれる。たしかに、「ハジマリニ カシコイモノゴザル」で書いたとおり、そういう面があると思う。だが、それだけではなく、明らかに旧約に対する新約の恵みのさらなる偉大さ、「(旧約の)恵みの上にさらに(新約の)恵みを受けた」(1:16)ことが、一貫して語られていることを見れば、ユダヤ人を読者として想定して書かれてもいることがわかる。洗礼者ヨハネは、旧約時代の最後の預言者であり、彼が水のバプテスマを与えたのに対して、あるいは、その上に聖霊を注いだのが、主イエス・キリストである。