苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ポンテオ・ピラトのもとに

『舟の右側』から依頼があって、国家主義が強まる状況の中、キリスト者としてどう考え、どう生きるかについて、二三回で書いてくれとのことでした。一回目の原稿を書いていまさっき出しました。
冒頭はこんな感じ。
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 二十歳前に教会に通い始めたころ、礼拝の中で「使徒信条告白」があり、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」という文言を読んで、「ピラトはイエス様を処刑した責任者として二千年間名指しで非難されて、たいへんだなあ。なにも自ら進んでイエス様を処刑したわけではないのに。」と思いました。なぜ、教会は「ポンテオ・ピラトの下に」と告白し続けるのでしょうか。
(中略)
 もう一つ大事なことは、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」というくだりは、キリストと国家、教会と国家との難しい関係を示しているということです。聖書を注意深く読んでみると、神の民とこの世の権力、つまり、「教会と国家」の問題は、旧約時代も新約時代も繰り返し出てくることに気づくでしょう。再臨が近づく「産みの苦しみ」の時代に「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と主イエスは予告されました。民族主義国家主義が勃興するとき、私たちはサタンがどのように国家権力を操り、神の民を惑わすのか、その策略を見抜く力を備えておくことが必要です。