苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自分の十字架を負うとは

マルコ8章31-38節
2017年1月8日 苫小牧主日礼拝

1 受難と復活の予告
(1)主イエスの使命
 「あなたは生ける神の御子キリストです。」というペテロの信仰告白を聞き届け、ご自身の教会の設立を宣言なさると、イエス様はただちにご自分の受難を予告なさいます。

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 ご自分が神の御子キリストであり、教会を設立すると宣言した直後に、このように受難と復活の予告をなさったのは、神の御子キリストが教会(神の民)のために成し遂げられる主要な任務は、この受難と復活なのだということを示しています。
 「福音書とは何ですか?」と質問されると、とりあえずの説明として「イエス様のご生涯を記した伝記です」と答えることは間違いではありませんが、伝記にしてはずいぶん変わった伝記なのです。というのは、イエス様の公のご生涯、つまり、30歳になられてからの3年ほどの期間のうちの最後の一週間に非常にアンバランスなまでにページを割いているからです。マルコの福音書でいえば、16章あるなかで最後の一週間に11章から16章まで、つまり、三分の一以上を割いているのです。幼いころ、野口英世とか二宮金次郎とかエジソンとか良寛さんとかいろんな偉人伝を読みましたが、死にいたる最後の一週間にこれほどの分量を割いた偉人伝はほかに例がありません。主イエスの主要な任務はエルサレムで苦しめられて十字架にかけられ殺されて、三日目によみがえるということだったという事実が、ここによく現れています。
 使徒信条は、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ・・・・」と、山上の垂訓や奇跡はすっとばして、受難と復活についての告白に移っています。それは、イエス様の主要な任務はあの受難と復活にあったからです。あの主イエスの十字架と復活によって、神様と私たちを隔てていた罪の壁が取り去られて、神とのいのちの交わりが回復したのです。

(2)さがれ、サタン
 しかし、イエス様から、ご自分がまもなく苦しめられ殺されてしまうのだという予告を聞かされて、シモン・ペテロは動揺してしまいました。シモンだけではありません。弟子たちみなが同じ思いでした。
 彼らは、イエス様こそ、旧約聖書の時代から預言者たちが、その到来を予告し、イスラエル民族が待望し続けてきたメシヤであるということを、今しがたはっきりと知らされたのです。弟子たちはこれまで「イエス様はメシヤだろう。いや、そうではないのか。」と少々迷っていた形跡がありますが、ここではっきりとイエス様がそれを宣言なさったのです。メシヤの到来は旧約時代から幾度も予言されてきた約束であり、アブラハム以来、イスラエル民族の悲願でした。特に、アレクサンドロス大王の遠征によって独立を失い、その後、ローマ帝国に呑み込まれて、その圧制に苦しめられるようになってからは、メシヤ待望は切実となり、勢い、そのメシヤ観はローマ帝国のくびきを打ち砕く英雄という政治的なイメージが強いものとなりました。
 主イエスの弟子たちもこうした時代背景があったので、イエス様に対して政治的メシヤを期待したらしいことが福音書のあちらこちらからうかがえます。ですから、せっかくご自分がメシヤであることを明らかにしてくださったばかりなのに、いきなり都エルサレムにいって敵に苦しめられて処刑されてしまうなどという弱気なことをおっしゃるとは、とんでもないことだったのです。そこで、今しがた、シモン・ペテロがイエス様をかたわらに引き寄せていさめ始めたのです。

「8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」

 ところが、このペテロの諫言に対して、主イエスは振り向くや、きっとにらみつけて、これ以上に厳しいことばがない言葉をもってお叱りになります。

「8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

 イエス様がペテロを「サタン」としかりつけたのは、昔、へびの舌を借りてサタンが最初の人アダムを誘惑したように、今、弟子ペテロの舌を借りてサタンが巧妙にイエス様を誘惑していることを見抜いたからです。ペテロの唇をもちいてサタンが言ったことは、「十字架の苦しみなど抜きにして、栄光をつかむ道があるではありませんか。あなたは神の御子であり奇跡だって起こせるのですから。」ということです。「政治的・軍事的な手段によって、エルサレムの王座について困っている民を助ければよいのですよ。何も十字架の辱めの道になど進む必要はありません。」というのです。これは、荒野の40日の断食のあと、サタンがこの世の栄耀栄華を見せて、「私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげよう。」というのと同じ誘惑です。
 サタンは、このようにもっとも近しい人の親切そうな言葉を用いて、神のみこころを行おうとする私どもの決心を挫いてしまおうとすることがあるのです。私たちも、日常の中で、「神の国とその義とを第一に選び取ろう」とする時に、親切そうなことばで欺かれることがあるかもしれません。「そんなにムキになって神様を礼拝しに行くことないよ。」「そんなに一生懸命に奉仕してもなんの得があるの。」「あなたがあの人を憎むのは当然だよ。敵を愛せよ。赦せなどというのは、単なる理想論だよ。」などと。私たちは常に謙虚な耳を持っているべきですが、サタンの誘惑には警戒していなければなりません。また、自分自身がイエス様から「さがれ、サタン」といわれてしまわないように、主を恐れて唇を慎むべきです。

2 自分の十字架を負って

 イエス様の聖なる怒りに触れて、ペテロは真っ赤になってそれからしょげてしまったことでしょう。イエス様は振り返ると弟子たちみなのほうを見て今度はおごそかに諭されました。

8:34b「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

 弟子としてイエス様に従うためには、「自分を捨てて、自分の十字架を背負わなければなりません。ところで、「自分の十字架を負う」という表現は、多くの人が誤って用いています。なにか、その人の宿命を背負って生きていくという意味のようにとらえている人が多いようです。何か重い障害を背負って生きていくとかいうふうに。しかし、自分の十字架を負うとはそういう意味ではありません。正しく解釈するためには、現代人が勝手に抱いている十字架に関する持っているイメージを捨てて、イエス様の話を聞かされた弟子たちがどう理解したかを考えなければなりません。
エス様の時代にあって、十字架を背負ってゴルゴタの処刑場に一歩一歩進んでゆく人を見たら、「あの人はハンディを負って頑張っているなあ」と思う人はいません。当時の人々が、重い十字架を背負って歩いている人を見て思ったことは、まちがいなく「ああ、あの人はこれから処刑場に向かっている。彼はもう死んだも同然だ。」です。当時、十字架刑にされる人は、自分がかけられる十字架を背負って処刑場に向かったのです。
ですから、イエス様が弟子たちに「自分の十字架を負いなさい」というのは、「自分に死になさい」という意味です。主イエスは、「あなたのの夢、あなたの野心、そういうものは捨て去って、ひたすらわたしの後に従ってくるのだ」と命じていらっしゃるのです。弟子たちには、「もしイエス様がエルサレムで敵を倒して、ダビデの王座を回復されたら、左大臣になりたい、右大臣になりたい」というふうな野心がありましたが、「野心は捨てて、ただひたすらわたしについてきなさい」と主は命じるのです。
自己実現」ということばが、日本ではもう三十年ほど前から流行っています。しかし、私たちは「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈る者たちです。つまり、自己実現でなく、主のみこころの実現を願うのがキリストの弟子です。御心が実現するために、自分の十字架を背負うのです。自分に死ぬのです。
ある伝道者が、教会のない古い因習の強い地域に開拓伝道に立ちなさいと主に導かれたとき、彼は人間的にはまったく自信はありませんでした。そこで何年伝道したら何人か救いに導き、会堂を建てることができるだろうという見通しはありません。結局、一人も救いに導くことができず、失敗者としてうずもれてしまうかもしれぬと思いました。彼の決意を知って、何を血迷ったのかと心配して、電話をしてきてくれる先輩牧師もいました。しかし、彼は思いました。囲碁をするとき、棋士は大局において勝利するために、ある石は捨て石にするものです。もし、自分が主の勝利のために捨て石として用いられるならば、それでよいと思いました。主の弟子にとって重要なことは、何を成し遂げるかではなく、主に従うことです。自己実現でなく、みこころの実現です。

3 いのちと死の逆説

 そして、主イエスキリスト者においては、いのちと死との逆説があるのだと教えてくださいます。

「8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。 8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」

 初代教会の弟子たちにとって、キリストとキリストの福音を公然と信じ、宣教することは文字通り命がけでした。ステパノとヤコブエルサレムユダヤ当局にとらえられて処刑され、ペテロはローマで殉教し、トマスはインドで殉教しました。最後に残された使徒使徒ヨハネはパトモス島に流罪にされました。2世紀、3世紀のローマ帝国時代、皇帝が神格化され、その像を拝みいけにえをささげることが求められましたから、多くのキリスト者たちはこれを拒んで処刑されました。
 彼らはいのちを粗末にしたのでしょうか。いいえ。そうではなく、いのちを大切にしたからこそ殉教したのです。キリストを公然と拒み、ローマ皇帝像の前に礼拝した人々は、永遠の滅びに陥りました。主と主の福音のためにこの世の一時的な肉体のいのちを捨てたキリスト者たちは、永遠のいのちを得たのです。
 ほんの70年前、先の戦争の前と戦時中、日本は朝鮮半島満州・中国・東南アジアに侵略したとき、各地に神社をつくり強制参拝させ、天皇は現人神であると教え皇居を遥拝させました。しかし、まことの信仰者たちはこれを拒みました。朝鮮半島ではそのために二百人余りのキリスト者たちは、殉教しました。彼らは、いのちを粗末にしたのでなく、いのちを貴んだ人々です。
 自分のいのち、この世における成功や安寧に心囚われた人々は、目先、何かこの世でよい物を得ても、結局、永遠のいのちを失ってしまいます。しかし、自分の野心を捨て、自分のいのちまでもささげてイエス様に従う人は、結局は永遠のいのちを神様から与えられるのです。
 

4 告白的信仰

「8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

 「このような姦淫と罪の時代」と主はおっしゃいました。当時、ヘロデ大王が設計した豪華な神殿で行われる礼拝は荘厳で、祭りともなれば世界中から巡礼たちが集まってとても盛んだったそうです。けれども、主の目から見るならば、その宗教盛んな時代は姦淫と罪の時代にすぎませんでした。ローマ帝国のみだらな文化や風習にあからさまにそまった人々が一方にいる反面、異邦人を軽蔑するユダヤ人の宗教家たちは立派な祭服をまとって荘厳な儀式を行い、厳密な律法解釈を行っていましたが、主イエスは彼らの偽善の数々をすべてご承知でした。当時のエルサレムにおける宗教家たちの内情をよく知っていた使徒パウロは言っています。「2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。・・・ 2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」(ローマ2章)
 そういう姦淫と罪の時代の風潮に妥協し迎合し、自らがキリストの弟子であることを恥じるような者ならば、最後の審判の日、主も彼を恥じるのです。神に受け入れられる信仰とは、告白としての信仰だということです。信仰とは、単に内心の事柄ではありません。真実の信仰は、公の信仰告白をともなうのです。
「あなたはキリストを信じているのか?」と問われたら、いつでも、どこでも、誰にでも、「はい。わたしはキリスト者です。キリストが私の罪のために十字架にかかって復活してくださった神であると信じています。」と告白しなければなりません。
自分を捨て自分の十字架を背負って主イエスに従っていくとき、私たちは苦しみにあいます。初代教会でも、古代キリスト教会でも、私たちの国のキリシタン迫害の時代にも、主のためにいのちをささげた先輩たちがたくさんいます。内村鑑三は、一高の教員だったとき、教育勅語の御名御璽に最敬礼をしなかったということで、社会から排斥されました。国家総動員令とか治安維持法が制定されたときには、節を曲げないキリスト者が苦しみを受けました。矢内原忠雄はキリストのために東大教授の職務を捨てることになりました。こんな有名な人々だけではありません。岐阜県大垣にあった美濃ミッションの名もないキリスト者の母たちと子どもたちは国を挙げての弾圧にあいました。
 彼らは目先この世のすべてを失ったかのように見えました。しかし、朽ちることのない永遠のいのちを得たのです。主イエスが再びおいでになるときには、主イエスの名のゆえに光栄な報いを受けることになるのです。
 
結び
 今でも、日本という国では、キリストにしたがって生きる道は世間的に見て得をする道ではないでしょう。会社勤めをしていて、自分がキリスト者であることをはっきりとさせることは、出世の妨げでしょう。私たちは時に親戚の中で、針の筵に座らせられるような経験もしなければなりません。意外なことではありません。イエス様にしたがう道は、昔から十字架への道なのです。そして、十字架の向こうにこそ栄光が待っているのです。
 サタンは目先だけ得する広い道を見せます。おおくの人はその広い門から入り広い道を行くのです。しかし、それは永遠の滅びへの道です。
 永遠のいのちにいたる門は狭いのです。自分を捨て自分の十字架を負い、主イエスの足跡に倣う道です。私たちは、この道を行くのです。

聖歌217
「主にある父らの 奉ぜし教えは 獄屋も剣も火も消しえざりき
 同じ道すすまん われらも雄々しく」