苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

家畜小屋を選んで

Lk.2:1−7

2016年12月25日 苫小牧クリスマス主日礼拝

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

1.歴史の中に、神の支配が

(1)歴史の中に
 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」
ルカはこのように書き始めることによって、御子イエスが人として地上にこられたことは、神話や小説などのフィクションでなく、歴史の事実であることをまず強調しています。歴史家ルカと呼ばれるように、神様はルカという事実にこだわる医者を用いてこうした歴史的福音書を書かせられました。
 皇帝アウグストは紀元前27年から紀元後14年、ローマ帝国皇帝に在位した人物ですし、クレニオがシリヤ総督であったことも、住民登録令が出されたのも歴史の事実です。イエス・キリストと言うお方は、この歴史の中にお生まれになった実在のお方です。これがまず聖書が私たちに伝えたいことです。

(2)皇帝も神の御手の下に

 皇帝アウグストというのは、あのカエサル(英語でいえばシーザー)の養子にあたる人物です。かつて都市国家であったローマは元老院が共同で治める方法をとっていましたが、版図が地中海世界全体に拡大すると、決断のスピードの速い帝政へと移行することになります。その最初の皇帝が皇帝アウグストです。アウグストは、レンガのローマを大理石のローマに、木でできたローマを黄金のローマに作り替え、彼以降数百年にわたるいわゆる「ローマの平和pax romana」の基礎を築きました。
 強力な帝国を維持するためには、財政の安定が必要です。そこで、アウグストは徴税のための住民の台帳を作るため、アウグストは住民登録命令を地中海全域に広がるローマ帝国全土に発したのです。
 都ローマからはるか東に位置するこのユダヤの国にも、勅令は及びます。そこで人々は住民登録をするために、先祖の地へと帰っていくことになりました。主イエスの養父ヨセフそして母マリヤは、北のガリラヤ地方から、先祖の地ベツレヘムの町をめざして旅をするのです。直線距離にして百二十キロほどの距離、実際には200キロほどもあった道のりです。すでに臨月を迎えているマリヤにとっては、徒歩であろうと、ロバに揺られるのであろうと、過酷な旅であったでしょう。
 けれども、世界の民を自在に動かしたローマ皇帝も、実は、神の御手のなかの道具にすぎないのだということを4節のみことばは語っています。

「2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、」

ダビデの家系にメシヤ救い主が来られるということは1000年前に預言者ナタンが告げたことであり、そのメシヤはベツレヘムに生まれるということは、紀元前700年代に預言者ミカに告げられていた神の計画でした。

ベツレヘム・エフラテよ。
あなたはユダの氏族の中でもっとも小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5章2節)

もし、皇帝アウグストが全世界に住民登録命令を発しなかったら、イエス様はナザレに生まれたのです。また、かりにアウグストが住民登録命令を発したとしてもそれが、2か月後だったら、イエス様はガリラヤのナザレに生まれることになっていたのです。けれども、まるでアウグストはイエス様誕生のその時期をねらい撃ちするようにして、住民登録命令を出したのでした。もちろんローマ皇帝アウグストは、旧約聖書を読んだはずもなく、キリストの到来の約束を知る由もありません。歴史の支配者である神が、皇帝アウグストを、預言を成就させるための道具として、ひそかな摂理の御手をもってお用いになったのです。アウグストは当時の地中海世界に君臨する皇帝でしたが、彼もまた真に世界を支配し歴史を摂理される神の道具でした。
 ダビデの家系から、ベツレヘムに生まれたイエスという赤ん坊は、そういう特別なお方、神の御子であるということを、証明するために、その誕生については丁寧に予告されていて、それがことごとく成就してイエスは誕生したのです。


2.家畜小屋の意味

 ヨセフとマリヤがようやくベツレヘムに到着すると、ベツレヘム中の宿屋という宿屋は満員でした。それに今にも子どもが生まれそうな状況では、相部屋でというわけにもまいりませんから、宿屋にとっては、このナザレの田舎から来た夫婦は面倒な客でした。それで結局、あてがわれたのは、むさくるしい家畜小屋でした。羊や牛やろばたちの糞尿のにおいがしみついたような家畜小屋、それが神様の御子が産屋として用いられた家となりました。
 ローマ帝国の栄光の時代に、帝国の片隅の属州ユダヤの地の、ベツレヘムという小さな町の、しかも、家畜小屋に主イエスは生まれ、飼い葉桶を寝床となさいました。
 この出来事から三つのことを考えさせられます。


(1)人間の罪
家畜小屋の出来事から考えさせられる第一のことは、人間の罪深さ、愛の無さです。
この貧しげな夫婦の、おなかの大きい若い奥さんは今にも赤ちゃんが生まれそうなようすなのに、宿屋は欲に目がくらんで、ヨセフとマリヤを拒みました。いいえ、人として生まれて来ようとしていた最も小さな弱い姿のキリスト・イエスを拒んだのです。もしイエス様が貧しい夫婦の胎児としてでなく、国王夫妻の胎児であったら、宿屋は「部屋はありません。家畜小屋ならどうぞ」と言ったでしょうか?いいえ。宿屋は、先のお客を全部追い出してでもスイートルームを提供したことでしょう。イエス様が貧しく小さな姿をして来られたので、かかわっても得にはならない貧乏人なので、宿屋は部屋を提供しなかったのです。ここには恐ろしい人間の罪が露わにされています。罪とは何か?罪とは愛さないことです。自分の都合ばかり計算して、愛さないことです。
終わりの日、最後の審判のとき、キリストは王として裁きを行われます。

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。 25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 聖書は、人間はみな罪があると教えています。その人の本性は「最も小さい者」に対するふるまいによって、神の前に露わにされてしまうのです。主イエスは、折々、最も小さい者としてあなたを訪れるのです。


(2)キリストの謙遜と十字架
家畜小屋の飼い葉おけが教える第二のことは、これらはイエス様の十字架を指さしているということです。
 神の御子は権力や富や名誉からもっとも遠い姿を持ってお生まれになりました。主イエスは、権力や富をもって他を支配することを求めるのでなく、むしろ他に仕えるしもべとなるためにこそ地上に来られました。主イエスは私たちに仕えてくださいました。御子のへりくだりの究極の出来事は十字架の死によって、私たちを罪のほろびから救ってくださったことです。御子の家畜小屋誕生の出来事は告げています。
 「そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』」マルコ10:42−45
 ここに抜本的な価値観の転換があります。世の価値観においては、黄金の玉座に着く人が最も偉い人なのでしょう。けれども、神の御子は家畜小屋の飼い葉桶に眠られました。王の王であられる御子イエスは、私たち愛の欠けた罪ある者を、その罪と滅びから救うために、しもべとして仕えてくださるために来られました。私たちに仕え尽くして、最後には十字架で命を捨てるために来てくださいました。

「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ2:6−8


(3)キリストの内住
神が家畜小屋が指し示す第三のことは、御子は、罪深い私たちを住まいとしてくださるという約束です。
私たちは自分を正直に顧みるならば、自分のような汚い罪人は、イエス様の御霊をお迎えするにはふさわしくないと感じます。けれども、イエス様はあえて不潔な家畜小屋を選ばれました。家畜小屋のような私たちの心でも、主イエスがきてくださるのです。そして、主イエスをお迎えするならば、私たちは変えられます。
「私」という主人公の書いた手記を思い出しながら紹介してみます。
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ある日、私はイエス様を受け入れ、自分の心の住まいにお迎えしました。生きる目的のわからない人生から、神の栄光をあらわす人生を知り、死んでも天国に迎えられるという確かな約束をいただいた人生に、今まで経験したことのない喜びを経験するようになりました。
ある日、主イエスは私の家を歩き回り、鍵がかけられたドアを見つけます。主はおっしゃいます。「ここを開けてごらん」しかし、私は「いいえ、この部屋はお見せできません。私のプライバシーです。」すると、主は「そうか。それなら、わたしはこの家から出ていく」とおっしゃいます。・・・私は悩みに悩んだ末、主にその部屋の鍵をあけます。そこには、見られたくない恥ずかしいもの、手放したくないものが入っていました。主は部屋に入ると、きれいに掃除してくださったのです。そして、私は主に我が家のマスターキーをお渡ししました。以来、私の心は、喜びと平安が尽きることがありません。
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 あなたには、主イエスを美しい客間にはお迎えしたでしょう。しかし、まだ主に明け渡していない心の一室があるのではないでしょうか?あなたのしがみついているもの、主にも見せたくないものをしまった部屋が。私たちは、自分のきれいなところのみを、主にお見せしているうちは、主とほんとうに近しくなることはできません。自分の恥ずかしいところ、あけ放ちたくない部屋にまで主をお迎えするならば、主は、ほんとうにあなたの人生の主となって、あなたを支配し、あなたの人生にほんものの平和を与えてくださるのです。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。」1コリント6:19