苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

おできのラザロの死

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。(ルカ16章19−22節)

 ラザロは、あの義人ヨブもこんなふうだったのかと思われるほど全身がおできに冒されて、仕事もできず、ついには金持ちの家の前で物乞いをしていた。友といえば、彼のおできをなめにくる野良犬一匹。しかし、神は彼が空腹のなかで息を引き取ったとき、天使たちを送って彼のたましいをアブラハムのふところへと連れて来させた。
 これは主イエスのお話であるが、たとえ話の一つかどうかはよくわからない。主イエスの他のたとえ話のなかに、この話のように特定の人物名を見ることはないから、これは実際に主イエスの知る人物に起こったことである可能性が高い。
 それならばなおのこと、と思うのは、神を信じるラザロがどうしてこんなにも悲惨な最後の日々を送らねばならなかったのだろうか?ということである。信仰者が、健康を害し、仕事を失い、最後には餓死同然というのでは、「あかしにならない」とか「『彼の信じる神はいるのか?』と世の人々のつまずきになってしまうではないか」と考え込んでしまう。だが、こんなことを考えてしまう私を、主イエスは、「お前は、何を思い上がっているんだ」とお叱りになるのだろう。
 健康で世間並みの経済生活をして死ねば、神の栄光をあらわす死であり、ラザロのようだと「あかしにならない」などというのは、愚かな世間的知恵なのだ。審判者である神の前では、ラザロと私の罪と惨めさ加減はきっと五十歩百歩なのだ。いずれにせよ、ただ恵みによって憐れみを受け、罪を赦していただくほか無い身である。地上の誰も理解しないとしても、ラザロには神がお定めになった時があって、彼は地上で負うべき重荷を負いとおして、神の恵みを受けて天に呼ばれたのである。