苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

母と子

創世記21:8-21

2016年11月13日 苫小牧

1.母と子

8節から9節:イシュマエルがイサクをからかう
 神が90歳の石女サラに笑いかけてくださって、イサクが生まれました。待ちに待った一人息子です。アブラハムとサラはどんなにうれしかったことでしょう。彼らだけでなく、一族の人々は後継ぎの誕生をどんなに祝福したことでしょうか。この日は乳離れの宴席です。ところが、一族みなが喜んでいる中で、唇をかみ締めて暗い顔をしている二人がいました。ハガルと息子イシュマエルです。ハガルはかつてイシュマエルが生まれるとき、自分がご主人様の子どもをはらんだということで増長して、女主人サラをないがしろにしたために、ひどい目に会い家を出たことがありました。そのとき、彼女は神様に「あなたの女主人のもとに帰り、そこで身を低くして(つまり謙遜に)暮らしなさい。」といわれたのでした(16:9)。
 やがてハガルは息子イシュマエルを生みました。アブラハムはあまりおおっぴらにハガルに優しくしてやることもできないのですから、こういう場合にありがちなことですが、彼女にとっては息子イシュマエルだけがすべてということになってしまいました。女性は夫からかまってもらえないと、子どもだけを生きがいとし、子どもをもって自己実現をしようとしがちです。けれども、そういう母親の期待は子どもにとってかえって災いとなる場合があります。ハガルにとっては、イシュマエルによって、女主人サラを見返す日が来ることだけが望みでした。
「ご主人様のお子を産むこともできずに、なにが女主人よ。まあ、見ているがいいわ。どうせサラ様はもう90歳。子どもの生めるからだじゃあない。遅かれ早かれ私がおなかを痛めてうんだイシュマエルがこの一族の跡取になる。サラ様、今に見ていらっしゃい。」と。
 ところが、あろうことかアブラハムが百歳、サラが九十歳というのに、そこに息子イサクが生まれたのでした。ありえないことでした。ハガルの悔しさは想像に余りあります。そして、イサクの誕生をのろうような気持ちで暮らしている母親の気持ちが、一緒に暮らしているその息子イシュマエルに伝わらないわけがありません。イシュマエルはすでに十六、七歳の青年です。幼い頃から母親に「いずれ、おまえがアブラハム様の跡取りになるんだよ。」といわれて育ったのでしょうから、このまま行けば自分が一族の棟梁となると確信して疑ったことが無かったのです。
 (ハガルがイシュマエルを産んだときアブラハムは86歳でした。イサクが生まれたとき、アブラハムは100歳ですから、このときイシュマエルはすでに14歳であり、イサクの乳離れのお祝いの会のときには、イシュマエルは16歳か17歳の青年であったわけです。昔は15歳が元服(成人)ですから、若いとはいえ、イシュマエルはすでに成人を迎えていたということになります。)イシュマルが異母兄弟、イサクをかまったのは、単なるいたずらではなく、相当の敵愾心、もしかしたら殺意を含んでいたのでした

 ここから学ぶべき教訓の一つ目は、おのれの分をわきまえることです。ハガルは自分のおるべき所を見失った女性でした。彼女は、女主人サラの下に身を低くしておるべきでした。神はサラから後継ぎが生まれるとおっしゃっていたのですから、彼女の息子が跡取になることはもともとありえなかったのです。ところが、ハガルは己の分をわきまえず思い上がったために、わが身に苦しみや災いをまねくことになったのです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)ハガルがもし己の分をわきまえているならば、ご主人様に子どもが生まれたことを慶ぶことができたでしょうに。

 もう一つの教訓。母親の心持は、その子に伝わらないではいないということです。ですから、お母さんは子どものことが心配であればあるほど、その心配に身を焦がすのは得策ではありません。お母さんが心配で、不安でいっぱいになるならば、子どもはさらに不安になるでしょう。子どもが心配ならば、むしろ、自分のたましいの平安であることに一番心を砕くことがたいせつということになります。また父親の役割の一つは母親が平安な心持でいられるように配慮することです。
 神様が私を生かしていてくださる。神様がきょうもともにしてくださる。この約束に心を留めましょう。神様が私を愛していてくださる。そこに平安の源泉があります。


2.アブラハムの悩みと信仰による決断

 イシュマエルがイサクをからかっているのを見つけたのは女主人サラでした。サラはここに我が子と一族の将来に危険があると感じ取りました。今、その芽を摘み取るべきであると考えました。そして夫アブラハムに言ったのです。10節。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
 アブラハムは悩みました。「自分の子にかんすることなので非常に悩んだ」とあります。それはそうでしょう。いくら奴隷から生まれた子であるとはいえ、すでに15,6年もいっしょに暮らしてきたのです。当然、情も移っています。どうして追い出すことが出来るでしょう。あまりにも理不尽というものです。
 ところが、です、14節を見てください。「翌朝早くアブラハムはパンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに送り出した。」とあります。驚くではありませんか。「非常に悩んだ」というのに、翌朝早くには、さっさとハガルとイシュマエルを追放してしまったのです。しかも、財産も分けてやらず、付き人もつけず、ただパンと水の皮袋だけを持たせて。なんという非情でしょう。なんという理不尽でしょう。
 アブラハムはどうしてあんなに悩んだのに、翌早朝にはこうもあっさりとハガルとイシュマエルを追い出したのでしょうか。それは、神様からのご命令と約束があったからでした、12節13節。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。 21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
 アブラハムは、信仰ゆえにハガルとイシュマエルと即座に追い出したのでした。追い出すことが神様のご命令であり、やがて神様はイシュマエルを祝福なさると約束をしてくださったので、アブラハムはもう安心してこの二人を追い出したのでした。ここにアブラハムの神様に対する信仰が非常に堅固なものになったことを私たちは見るのです。このときまでアブラハムの信仰は結構右にゆれ左に揺れしたものでしたが、神様がイサクをお約束どおりにくださったという経験を経て、アブラハムのうちには神のご命令には従い、神の約束は信じるということが確立したのでした。
 かつて約束の地を飢饉が襲ったとき、彼は神様の約束を忘れてエジプトに逃れて失敗をしました。飢饉という状況に揺り動かされ、エジプトに避難するという世間の知恵に誘惑されたのです。 またあるときは妻サライが「もう自分は子どもを生めない体ですから、ハガルから子を得てください」と言うと、アブラハムはまたも神様の約束を信じられずに過ちを犯し家庭の中に不和を持ち込むことになりました。これも当時の社会で行なわれた習慣でした。アブラハムは神様の御言葉よりも、状況の困難さを恐れ、人間的肉的知恵に誘惑されたときに過ちを犯し、神の祝福を失いかけました。
 けれども、神様は約束されたとおり、アブラハムに子どもをお与えになったのでした。神の御言葉は真実でした。こうして、アブラハムは、繰り返しますが、神の約束は信じ、神の命令には従うという信仰を確かなものとして身に付けたのでした。人間的には理不尽と見え、人々から非情な人だと非難されるとしても、神のお約束を信じ、神のご命令には従うということこそ、唯一のそしてほんとうの祝福の道なんだということをアブラハムは確信していたのでした。


 信仰とは複雑なことではありません。私たちが信仰の父アブラハムに学ぶべきは、神の約束は信じること、そして、神のご命令には従うことです。私たちが信じるべき約束と、私たちが従うべきご命令は聖書に啓示されています。信じられないといういろいろな理屈があるでしょう。いろいろな従えないという理由もあるでしょう。けれども、神の約束は真実ですから、信じることです。また私たちは主のしもべなのですから、そのご命令にはしたがうことです。これこそ、祝福の道なのです。

3.ハガルとイシュマエル

 家を出されたハガルとイシュマエルはベエル・シェバの荒れ野をさまよいました。きっとハガルはサラを呪い、アブラハムを呪い、イサクを呪いながら、荒れ野をさまよったに違いありません。水があるうちはまだ人をのろう元気があったのです。ハガルという女性は勝気で、自我の強いところがいつも見えます。けれども、パンは尽き、皮袋の水もつきました。あの乾燥地帯で水が尽きるということは直ちに死を意味します。絶望でした。
 彼女はさきにぐったりしてしまった息子を潅木の下に投げ出し、自分は矢の届くほどの距離30メートルほどでしょうか、離れたところにぺたりと座り込んでしまいました。「子どもが死ぬのを見たくない」と思った、とあります。イシュマエルはハガルにとって唯一の望みでした。その唯一の望みが今失われようとしているのです。なんという哀れな姿でしょうか。そして、声をあげて泣いたのです。気の強いハガルはここまで追い詰められて、自我が打ち砕かれて初めて声をあげて泣いたのでした。もうアブラハムをのろうことも、サラをのろうこともやめて、ただただ神様に打ち砕かれて、声を上げて泣いたのでした。
 そして、少年イシュマエルも息も絶え絶えに泣きました。「神様・・・助けて。・・・神様・・・助けて。・・・僕は死んでしまいます。喉がかわきました。」すると、哀れみ深い神はイシュマエルの声を聞いたのです。そうです。イシュマエルとは「神は聞いてくださる」という意味でした。17節、18節。
 神様はイシュマエルにはイシュマエルなりの祝福を与えるという約束をくださっていました。それは神の民としての祝福ではありませんが、アブラハムのもう一人の子としての地上的祝福は約束されていたのです。主は真実なお方です。その約束を守らないではいられないのです。
 ただ、この二人の姿を見るところから教えられるのは、主はその祝福の約束をかなえるにしても、受け取る側の人間に備えができるのを待っていらっしゃるということです。神の祝福を受け取る備えとは、へりくだった砕かれた魂です。
「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)