苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エパタ!

Mk7:31−37
2016年11月13日 苫小牧福音

7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。
7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。
7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」


 主はデカポリスに来られました。刑事とおまわりさんがたくさんいそうな地名ですが、そうでなく、ギリシャ語で10個の町という意味です。ギリシャ人たちが植民して十の都市による同盟があった地域でした。つまり、ユダヤ人からいえば異邦人がたくさん移り住んでいた地域です。福音書を読んでいくと、ユダヤ人たちは、自民族のメシヤをイエス様に期待していたことがわかりますが、イエス様はまずアブラハムの子孫であるユダヤ人に福音を伝えますが、その先には世界中のあらゆる民族に福音を伝えるご計画をもっていました。
今日はイエス様のところに一人の聾唖者が連れてこられました。人々は、みんなの前で、イエス様が彼の上にも手を置いていやして下さることをお願いします(32節)。ところが、イエス様の癒しの方法がいつもとは違いました。不思議な特徴があります。
 第一に、今回の癒しにおいては、イエス様はこの聾唖の人を群衆のなかから彼を一人連れ出しました。
 第二にイエス様は彼の両耳に指を差し込みました。そして、つばきをして彼の舌にさわられました。
 第三に天を見上げ深く嘆息して、この人に「エパタ」と言われたのです。(33節、34節)。
 イエス様は、いつものようにこの奇跡のことは口外しないようにと彼に言いますが、彼は言いふらしてしまいました。
 主イエスはおびただしい数の人々の癒しを行われたわけですが、その中で、主イエスのいやしの記事が特筆されるのですから、それは、単に病気がいやされたという事実だけでなく、そのいやしの出来事を通してなにかのメッセージを私たちに語っているのです。だから、私たちはそれを読み取らなければなりません。


1.群衆のなかから連れ出した

 イエス様はこの人をいやすにあたって、群衆から連れ出しました。何のためでしょうか。それは36節にあるように、イエス様はこのようないやしの奇跡を多くの人の前ですることを好まれなかったからということがありましょう。主はこうした奇跡を宣伝手段とはしたいと思われなかったのです。
 しかし、彼を群衆から連れ出されたということには、それ以上の意味があるように思われます。主イエスは群衆を愛されたのではなく一人の人を愛して下さるということです。 「シンドラーのリスト」という映画があります。ナチの収容所の人々千人を我が身の危険を顧みず自分の莫大な資産をすべてはたいて救い出したオスカー・シンドラーという人のことが描かれた映画です。彼はもともとはごく普通のドイツ人の悪徳企業家で、ユダヤ人を人間とは思わず、彼らを無料で酷使できる労働力としか見ていませんでした。しかし、ある日、ユダヤ人たちに対するナチの兵士たちの殺戮の現場に出くわした時のことです。モノクロームの画面のなかに年の頃五つくらいの一人の小さな女の子が赤い服を来て逃げ惑う場面があります。その子一人だけがモノクロの画面の中で赤いのです。シンドラーの目がこの小さな女の子を追っているのです。シンドラーの目にユダヤ人たちは今まで群衆としてしか映っていなかったのですが、この時初めて一人の人間としてのユダヤ人の小さな女の子を見るようになったのです。その時、彼の心の中に初めてユダヤ人を人間として見る心が生じたのです。そして、彼はユダヤ人救出のために勇敢に次々と手を打って行きます。
 やがて戦争はドイツ敗北に終わり、ユダヤ人解放の時が来ます。そのとき、ユダヤのラビが彼に向かって感謝をこめて言います、「一人を救うものは、全世界を救う」と。
 「イエスは、その人だけを群衆の中から彼を連れ出された」。主イエスは群衆を愛されたのではない。この一人の聾唖の青年を愛されたのです。きょうも主イエスは、あなたをあなたとして愛してくださるのです。


2.両耳に指を入れ、舌につばきをして

 人々が単に「手を置いて下さい」と願ったのに、イエス様は両耳に指を入れ、舌につばきをするという不思議なことをなさいました。なんのためでしょうか。そうしなければ、イエス様にいやしが行えなかったのでしょうか。そうではありません。この所作は、むしろ、この聾唖の人のためでした。この聾唖の人には、何を今からされようとしているのかが、わからなかったのです。彼はおそらく生まれたときから閉ざされた世界に住んでいました。外界とはコミュニケーションができないのです。人々が「イエス様のところに連れて行ってやろう」と言っても、何をされるのかわからなかったでしょう。主の前に来た彼はおそらく怯えてもいたでしょう。
 しかし、耳に指を差し込まれ、舌につばきをしていただくということのなかで、イエス様が私のこの聞こえない耳と、このまわらない舌をいやしてくださるのだということが、実感として彼のうちに迫ってきたのです。そして、彼のうちに主に対する期待、主に対する信仰が湧き上がってきたのです。
 なんという深い配慮でしょう。イエス様は、この人の立場に立ってこの業をおこなわれたのです。
 別の観点からいうならば、イエス様のみわざというのは、そこに人格的な信頼というか交流をともなってなされるということです。メカニックが車を修理するばあいには、車とメカニックの人の間に人格的な交流とかいうものは、必要ないでしょう。自動車が「ぼくを修理してください。あなたに信頼しています。」と思うことはありません。医療のばあいには、この点はかなり重要になります。患者が医者を信頼し、医者も患者のからだだけではなく精神状態にも配慮するということが、実際の治療効果にずいぶん影響するそうです。しかし、そうは言ってもかりに「あの医者はヤブじゃないのか?」と患者が疑っていても、適切な薬を処方するならば、ある程度の治療効果はありましょう。
 しかし、主イエスの御業がなされる場合には決定的にイエスに対する信頼ということが大切です。イエス様が故郷に帰られた時、故郷の人々は「なんだ、大工の小せがれじゃないか。」と言ってイエスにつまずきました。「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(6:5、6)とあります。
 ですから、イエス様はこの聾唖の青年のうちに、信仰を呼び覚ますために、彼のイエスに対する信頼を呼び起こすために、彼にふさわしい扱いをなさったのです。「イエス様ならきっと、私の耳を開いて下さる。この口をきけるようにしてくださる。」という信仰です。


3.エパタ

  天を見上げ深い嘆息をなさった後に、「エパタ!(開け)」とおっしゃった。なんとも印象的な行動とことばですね。「エパタ!」これは単に耳が開くようにというだけではないでしょう。彼の人生がずっと閉ざされた人生であったことを、主は知っていらっしゃるのです。彼のこれまでの孤立した、閉ざされた人生を思う時、イエス様は深い同情を感じないではいられず、嘆息をもらさないではいられなかったのでしょう。「父よ。この青年はこんなに寂しく孤独な閉ざされた人生を送ってきました。この人に開かれた人生をあたえてください。」と。人の語ることばを聞くこともできず、人にむかって思いのたけを伝えることもできずにきた人生でした。お母さんに「かあちゃん」ということもできず、心寄せる人にその心を伝えるすべもなく来た人生だったでしょう。当時は、今日のように手話という手段もなかったわけですから。
 しかし、閉ざされ孤立しているのはこの聾唖の青年だけではありません。「エパタ!」という言葉をアダム以来の人間はみな必要としているのではないでしょうか。最初の人は神様に背いた時、すぐにいちじくのはで腰の覆いを作りました。また、神様に対しては木陰に隠れるようになりました。あの時から人は閉ざされた狭い世界に生きるようになったのです。他の人との、真実な心の交流ができなくなりました。夫婦であっても親子であっても兄弟であっても、もし弱みを見せたら、人につけいられるという恐れを抱いて生きるようになりました。だから素直に自分を表現できないのです。
 名刺には「〜理事」「〜社長」などなどと肩書きをやたらと書き連ねたりする人がいます。また、やたらとシャネルだグッチだアルマーニだブランドもので身を飾り立てたりする人がいます。あるいは、家柄を誇ったり、学歴を誇ったりする。みんないちじくの葉っぱです。ありのままで人の前に出ることができないのです。暗い窓のない砦のなかで独りいつも人を恐れている、自己防衛しているのです。心を開けない。閉じている。
 なぜかといえば、神様との関係が閉ざされているからです。神様に愛され、神様に守られているという確信がない。だから、人の目を恐れ、人の非難を恐れるのです。そして、やたらと人を非難するのです。神様との関係が回復しないかぎり、神様に絶対の愛と御力をもって守られているという確信がないかぎり、人は暗い孤独の砦のなかに住んでいるのです。
 「エパタ!」と主イエスはおっしゃいます。主のことばはそのまま現実です。イエス様がこのいやしの奇跡を通じて、私たちに示そうとなさるのは、イエス様が、私たちを孤立し、閉ざされている人生から、人格と人格の交流のある豊かな開かれた人生へと回復してくださるということです。神様との人格的交わり、そして隣人との人格的交わりです。まず心からイエス様を心の王座に迎え、父なる神様に賛美をささげて生きていくならば、あなたは隣人との関係においても、恐れやねたみから解放されて、開かれた人生に歩めるのです。
 「エパタ!」「開け」ということばを、今、あなたもしっかりと信仰をもって受け止めましょう。


結び
 エパタ!と主は私たちのためにもおっしゃって、私たちを神に対しても、隣人に対しても閉ざされた暗い世界から解放してくださいました。神様を見上げて神を賛美し、神の御手の守りのなかに生かされているという平安の中で、私たちは隣人を怖がらなくてもよいものに段々と変えられていきます。開かれた人生を生きていくことができるようにされているのです。
 たしかに、このみわざは、私の人生の中にも起こったことでした。あなたの人生にも起こったことです。主のみわざを賛美しましょう。