苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「物語神学」の「物語」という用語の問題性

 藤本満師『聖書信仰』続読。 

「ジェラール・ジュウェットは、ストーリーとナラティヴを区別した。ストーリーは、実際に起こっている出来事の歴史的内容そのものであり、ナラティヴはその出来事を物語る文学的な言説である、と。歴史的な出来事としてのストーリーと、その後に記述され、共同体の中で繰り返し語られ、信仰的な意味づけや解釈がされてきた結果としてのナラティヴとの間に、落差があることは認めなければならない」(pp309−310)

という文章を読んで思ったこと。
 もし、ジュウェットのいうとおり、「ストーリーは実際に起こっている出来事の歴史的内容そのもの」であるならば、ストーリーつまり物語という用語は不適切だと思える。英語のstoryはいざしらず、少なくとも、日本語で「物語」というのは、フィクションという意味をほとんどの場合内包している。日本文学史の常識からいえば、「物語の祖」は「竹取物語」であり、作り物語の頂点は「源氏物語」であって、いずれもフィクションである。だから、「物語の神学」という表現があった場合、それを聞いた人が、聖書啓示の事実性を否定している神学ではないか?とか、かつてのように聖書を神話として見るリベラル神学と同類ではないのかと疑念を抱くのは必然のことである。それを「誤解だ」という非難はあたらない。自ら誤解をまねく用語を使っているのだから。
 ジュウェットのいうことが、もし「物語神学」の共通認識であるというならば、もっと適切な用語を考えるべきである。「物語」は聖書学者というサークルの中だけで通じる「隠語」なのだ。


<同日追記>
 少なくとも普通に日本語をつかう日本人に対して、宣教の現場の牧師・伝道者は「物語」という用語をもちいないことが賢明である。
 ストーリーも同じことである。「検察のストーリーにはめられた」とかいう表現も近年聞かされるが、これも作り話ということであろう。だからストーリーとか物語とか言われたら、一般の人は「ああ作り話か」と思うのは当然なのだ。
 もっとも、「力道山物語」「貴乃花物語」なんていうのは、たしかにある事実や証言に基づくものであろうが、「物語」とついていれば、作り話がそこに相当含まれていても読者はまあまあ文句言わないでねという合図みたいなものである。そこに適当な作り話がはいっていたら文句を言って良いのは、「ドキュメンタリー」或いは「新聞」であろう。
 バルトは新聞を読むように聖書を読んだという。聖書はそういう読まれ方をすべきものだと思う。新聞に「本日、正午ころ、東京を大地震が襲います」とあれば、人はそれに相応しく行動するであろう。しかし、「東京未来物語」に同じようなお話が書かれていても、読者は行動しないであろう。「物語」という用語には事実性が欠落しているからである。
 だから私は「マタイによるイエスの物語」とは呼ばず、「マタイによるイエスの記事」と呼ぶようにしている。さもないと、恐らく受け取った側に根本的な認識のずれが生じてしまう。