苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈・・・普遍(類似)と個物(区別)との両方に注目すること

 遅まきながら藤本満先生の『聖書信仰』を読んでいます。おもしろい本です。「新しいパラダイム」という章で、近代(モダン)の<理性と言語には文化や時代を超えた普遍性がある>という前提が壊れて、<理性も言語もある共同体のなかに限定される個別のものだ>というほうに振り子がふれて、ポストモダンの聖書解釈があるという。普遍から個物へと向かっているというわけ。
 この聖書解釈における個と普遍の問題は、すでに、渡辺公平先生がブルトマンを扱った「宗教と歴史の解釈者: 実存主義的神学の方法論を前にして」で論じて、回答を出していると思われた。
 すなわち、その聖書テキストが書かれた歴史的文化的文脈との類似性にのみ注目するのではなく、歴史的文化的文脈から切り離して普遍のみを抽出するのでもない。正しい聖書解釈は、歴史的文化的文脈との類似性と同時に、それとの区別性に注目することによってこそなされる。
 たとえば、出エジプト記の契約の書における奴隷について、どう読むか。奴隷などというものが認められた未開の時代の文書はナンセンスであると切り捨ててしまえば、何も読み取ることはできない。古代オリエントにおける奴隷の扱いがどのようなものであったのかということを認識し、それと聖書における奴隷の扱いとの類似性と区別性の両方に注目するとき、そこに読み取るべきメッセージが聞こえてくる。
 また、たとえば、近年、パウロにとっての歴史的文化的文脈としての第二神殿期ユダヤ教に注目が集まってきているが、パウロの正しい解釈は、第二神殿期ユダヤ教との類似性という器の中に、パウロの語る独自のことばを見い出すところにあるということになる。
 オリエントの創造神話と創世記1章、2章とか、大洪水神話とノアの箱舟の場合などそうだが、たいてい新解釈の提唱者は「その背景からこのように解釈できるのだ!」と類似性のみを強調しがちなのだが、正しくは類似性と区別性の両方を見なければならない。
 神は、ある文化の中に住む人々に語り掛けようとなさるとき、その文化を器として、これにそのメッセージを入れて語られる。そうでなければ、話が通じないからである。だから、そこには器における類似性と、器に盛られたメッセージの特異性がある。この両方をきちんと見てこそ、正しく神からのメッセージは受け取ることができる。



 また、ポストモダンの極論のまちがいを知るためには、C.S.ルイスのThe Abolition of Manという本も重要。ポストモダンの主張は、「近代のパラダイムでは普遍的な道徳律があるものだと信じていたが、そんなものは実は存在しないのだ。あるのは共同体ごとの決め事だけだ」という。たとえば、南米のある部族においては、「子殺し」も道徳的に正しいとされている、などと。こういう相対主義ポストモダンの特徴だが、ルイスは上の本の中で、上っ面だけ観察すれば、すべては個別的・相対的に見えるが実はそうではないことを実証して、そのリストをあげている。たとえば、子殺しが善とされる文化というのは、ジャングルで過ごす部族の中で、敵が迫ってきたばあい、2人までの子どもは両手にかかえて逃げることができるけれど、3人以上になると逃げることができない。逃げることができないと、皆殺しになってしまうという状況の中でやむなく3人目に生まれた子は殺すことがその共同体の中における善とされている。つまり、その部族のなかにも根本的には「殺すなかれ」という普遍的道徳律が存在するのである。 
 思想史というのは、個物と普遍の間を振り子が揺れているようなものなのである。神学や聖書解釈も、時代の影響を受ける。だが、時代の風潮に乗っかって、右往左往するのではなく、個物と普遍の両方をきちんとみきわめるところに正しい聖書解釈がある。