苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書の権威の射程

ああ、まさにそうだと思ったことば。

「聖書も、徹頭徹尾宗教的であり、救済を目的とした神の言葉である。しかし、それゆえにこそ、聖書は、まさに家庭や社会、学問や芸術のための言葉でもあるのである。」
「聖書は学問や芸術にとっても道の光であり、足のともしびである。聖書は、生活の全領域において権威を要求しているのである。」(H.バーフィンク)

バーフィンクは、聖書の権威を終始一貫救済的なものと性格づけた。それは聖書の内容であるキリストから本質的に規定されてくる性格付けであった。しかし、聖書の救済的権威の主張は、聖書の権威の宗教的領域への限定ではなく、創造の全領域に及ぶ有神論的権威を包含するものであった。キリストの救済が再創造の基点としての意味を持つように、聖書も再創造という救済理解の広い枠組みの中で宇宙論的意味を持つのである。(牧田吉和『改革派教義学1』p258)

 もし福音書のなかに典拠を求めるとすれば、これだろう。
 シモンが一晩中網をを下ろしても雑魚一匹かからなかったとき、主イエスが舟の右に網を下ろしてみなさいとおっしゃった。シモンは内心、『神の国の教えについてはイエス様が専門だろうが、漁にかけてはおいらが専門だよ』と思いつつ、「でも、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう。」と言って網を下ろしたら、網は魚でいっぱいになり舟は沈みそうになった。シモンは、鳥肌が立ってイエスにひれ伏した。
 ここには、牧師という者が、どのような意味で教会と社会にかかわるべきなのかということをも示唆しているように思う。牧師は徹頭徹尾救済を目的としてその務めを果たしていくが、それが家庭、社会、学問、芸術にも、これらを導く光を与えるものだ、と。