苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

全能の神の契約

創世記17章

2016年10月2日

1.全能の神の恵みが明らかにされるため―――人の力が尽きるとき

 ついにアブラムは99歳を数えるまでになり、妻サライは十歳下の89歳となりました。夫婦そろって、もはや決して子どもを産むことはできないからだとなりました。肉の力が尽き果てたのです。しかし、このときにこそ神の時が満ちました。神様は彼ら夫婦に実の子どもを授けるべきときが来たということで、一年後のイサクの誕生を予告してくださるのです。
 どうして、神様はアブラムとサライが枯れ木のようになるまで、子どもを授けなかったのでしょうか。それは、神様の力が現されるためでした。アブラムとサライ老いたりとはいえ自分たちの力で、子どもをなんとか得よう、なんとか神様の約束を自分たちの知恵で成就させなくてはと思っている間は、神様は彼らに約束の子どもをお授けになりませんでした。彼らがもう自分たちの力も知恵も尽き果ててしまったとき、神様は彼らに子どもを与えられたのです。
 それは、アブラムに対して神様がお与えになった約束は、神様の恵み百パーセントによって成就することが明らかにされるためでした。恵みが恵みとして明らかにされ,神様の恵みの栄光が褒め称えられるためでした。言い換えると、彼らが神様にゆだねきり、ただ信仰によって,神様からの恵みとして子どもを授かることができるようになったとき、その約束を成就させてくださったのでした。

 これは、イエス様の処女降誕の型です。神の御子イエスさまが乙女マリヤから生まれる、という出来事をはるか二千年前に予告する型でした。生まれてくるイサクは御子イエスの型として生まれるのです。人間にはできない。自然には不可能なこと。それを神は超自然の力をもって成し遂げられることを、この出来事は告げるのです。
 御使いガブリエルが神の御子をみごもったことを告げたとき、とまどう処女マリヤに対して、御使いは「神に不可能なことはありません。」とつげました。99歳のアブラムに対して,神様は今回「わたしは全能の神である」と自己紹介しておおせになりました。「わたしはすでに枯れ木になってしまった者に花を咲かせ,実を実らせることもできる神である」とアブラムに対して宣言なさったのです。
 「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
 

2.契約の内容

 その契約の言葉の内容を見ましょう。4節から8節です。
 (1)「アブラハムは多くの国民の父となり、わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」(7節)「わたしは彼らの神となる」(8節末尾)
 契約の中心的内容は、真の神がアブラハムの子孫の父となってくださり、神が彼らとともに住んでくださるということです。アブラハム契約以来、モーセを代表として結ばれたシナイ契約、ダビデ契約、そしてこれらの成就としてのキリストの契約に一貫して、神様の神の民に対する契約の中心的内容は、「わたしはあなたの神となり、あなたは私の民となる」ということです。
 シナイ契約は、出エジプト6:7にこのことばがあります。

「6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」

また、出エジプトの末尾で神様はその民のうちに幕屋という住まいに御臨在を現されました。これは未来のキリストの出来事を指差す予言的な契約でした。つまり、これは、イエス様の受肉と、聖霊の派遣によって成就するのです。時満ちて神は人となって私たちの間に住まわれます

ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」

 ここで「住まわれた」と訳される言葉は、「幕屋を張った」という意味のことばです。そして、ペンテコステ以来、キリスト教会は聖霊の宮となりました。
 そうして、最終的には主イエスが再臨され、花嫁なる教会が結ばれるとき、完全な意味で神様の契約は成就することになります。黙示録21:1−3

「また私は新しい天と新しい地とを見た。以前の天と,以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都,新しいエルサレムが夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て下ってくるのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこういうのを来た。『見よ.神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。』また神ご自身が彼らとともにおられて・・・」

 創世記17章7節と8節に繰り返される「わたしは彼らの神となる」ということばは、一見、小さなことばですが、実は歴史を貫く神からの救いの中心的なメッセージなのです。
 人類は、もともと神の所有なさる民として造られました。ところが、アダムにあって、人類は神に背を向けて、神を見失ってしまい、みなしごになってしまったのです。けれども,神様はみなしごになっている私たち人類をあわれんでくださって、「わたしはあなたの神となる。あなたは私の民になる。」とおっしゃり、ともに住んでくださるのです。


(2)アブラハムは多くの国民の父となる
 契約の内容のもう一つのポイントは、アブラハムの子孫が増え、アブラハムは多くの国民の父となるということです。17章4−5節

17:4 「わたしは、この、わたしの契約を
  あなたと結ぶ。
  あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、
  もう、アブラムと呼んではならない。
  あなたの名はアブラハムとなる。
  わたしが、あなたを多くの国民の
  父とするからである。

 アブラハムの子孫は、血統的にいえばイスラエル民族です。実際、ひとりの人からおびただしい民族となったのでした。けれどもアブラハムの子孫というのは、単に血統的な意味ではありません。神様はアブラハムを単にイスラエル民族の父とするのではなく、『多くの国民』の父とする」とおっしゃいました。アブラハムの子孫とは、霊的な意味においてそうなのです。
 実際、ここにいてイエス様を信じている私たち自身がアブラハムの子孫なのです。

ローマ4:16「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは,恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち,律法を持っている人々だけにでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした』と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

3.契約のしるしと信仰の応答

(1)契約のしるし――割礼
 神様は契約を結ばれるとき、それに伴う「しるし」をお定めになります。たとえば、アダムとエバとの契約のしるしは、園の中央にあった善悪の知識の木でした。あの木を見ると、契約を思い出しました。ノアの大洪水の後あたえられた契約のしるしは、虹でした。そして、今回は割礼という儀式でした。これは神の民となったことのしるしとして、行うことが求められたのです。9-14節。
 そして、新約において神の民となったことをあらわす契約のしるしとはなんでしょう。洗礼と聖餐式です。
 

(2)信仰の応答
 さて、アブラハムは神様からの契約のことばを聞いてどのように応答したでしょう。
 最初は、信じられなくて笑ってしまったのです。17−18節。

17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

悲しいあきらめのわらいでした。「まだ20年前ならばわかります。けれども、いまさら何を。」という気持ちでしょう。もうアブラハムサライと同様枯れ木のようになっていたからでした。不信仰なわらいでした。
 しかし、神様はアブラハムのこの態度を責めませんでした。むしろ、もう一度力強く契約の内容を告げるのです。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。・・・」イサクとは『彼はわらう』という意味です。彼とはイサクのことでなく、神のことです。神がお笑いになるというのです。神が、アブラハムサライに向かって、笑ってくださるのです。笑う君、笑太くんです。
 アブラハムは、次にどうしたでしょう。主のことばを信じたのです。人間的にはとても不可能だ。不可能だけれど、いや不可能だからこそ、全能の神様は可能にしてくださるにちがいない。アブラムはそのことを信じたのです.信じたので、主が命じられたとおり、割礼を受け、一族にも授けたのです。23節に「その日のうちに」とあります。神の約束を受けたら、即実行です。アブラムは、信じ得ないときに信じました。やはり、アブラハムは私たちの信仰の父です。
適用>
 割礼が意味したことは、神の民に所属しますということでした。ですから、逆にいえば、割礼を拒否するということは、私は神の民には属しませんということを意味したのです。新約の時代においては割礼は、洗礼にあたるわけです。


むすび
 肉の力が尽き果てたとき、神様のみわざが始まりました。「私にはどうしようもありません.できません。」となったとき、神様のみわざが始まります.神様はご自分が約束なさったことを、必ず実現させてくださるのです。
 私たちは神様のみことばの約束をしっかりと握り締めることです.常識では不可能、私にも不可能と思えることも、全能の神様が約束だから成就させるのです。ですから、私たちは信仰を持って主の約束をしっかりと握ることです。神は、私たちの信仰を喜んでくださいます。 神の恵みに信仰の告白をもって答えましょう。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神にちかづく者は、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださる方であることとを信じなければならないのです。」ヘブル11:6