苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自由と愛

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ5:13−16)

 人が神の前に義と認められるには、理論上、二つの方法がある。第一は割礼をはじめとする全ての律法を遵守することである。理論的にはこの方法は可能であるが、実際には不可能である。アダムの堕落以来、人間には根深い罪の性質があるからである。
 もう一つの方法は、律法をまっとうし、律法の呪いを引き受けてくださったキリストを信じることである。後者の方法の場合、私たちはもはや律法の下にはおらず、律法から解放されて自由である。キリスト者は、その自由を「肉(利己的性質)」の働く機会とせず、愛をもって互いに仕えることが許されている。それが可能なのは、神が、キリストにあって義と認めた私たちに御霊を与えてくださるからである。御霊が与えられた者は、律法の強制によってではなく、愛をもって働く信仰によって、律法の要求を十二分に満たす生き方を選択する。それは、主イエスが山上の説教でおっしゃった、愛のゆえに喜んで2ミリオン行く生き方にほかならない。

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:41)