苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

この方は誰か?

マルコ4:35−41

2016年8月27日

4:35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」


1.信仰の訓練

4:35「さあ、向こう岸へ渡ろう」

 イエス様は弟子たちにこのように声をおかけになりました。それは弟子たちを訓練するため、また、ご自分のことを啓示なさるためでした。私たちは今日も「主の祈り」で祈ったように、「こころみあわせないでください」と祈ってよいのです。あえて試練を求めるのは傲慢であると思います。けれども、もう一面、私たちの信仰の成長には試練が必要であるというのも事実です。
  神様が聖徒の成長のために試練をお与えになるという実例は、旧約聖書のなかにも枚挙に暇がありません。アブラハムヤコブ、ヨセフ、モーセダビデの生涯はみなそれぞれに試練に満ちていました。その試練を通して、彼らは自らの限界を認め、神にのみ信頼することを学び、神の栄光をあらわす器としてきよめられつくりかえられたのです。ヘブル書の有名なことばを引用しておきましょう。

ヘブル「12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
  「わが子よ。
  主の懲らしめを軽んじてはならない。
  主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、
  受け入れるすべての子に、
  むちを加えられるからである。」

 主は愛する者に試練をお与えになります。主イエスは弟子たちを愛しておられたから、「さあ、向こう岸へ行こう」と誘われたのです。私たちも試みにあうことがあります。それは主が私たちを見捨てたからではありません。私たちを愛しておられるから、神様は私たちを試練のうちに置いておられるのです。ですから、試練を軽んじてはいけません。あるいは、神に見放されたかのように誤解して、弱り果てたり、絶望してはなりません。忍耐して、実を結ぶものでありたいと思います。


2.舟による訓練の意味

「4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。」

 イエス様は、弟子を訓練するにあたっておりおり舟をお用いになります。舟による訓練には特別の意味があるとヨットの専門家が書いていました。ヨットには陸上やグライダーの訓練では出きないことができるといいます。陸上においてたとえば10キロメートル走れといっても、やるきのない少年たちはだらだらとまじめに走らないから、結局なにも訓練にならない。一方、グライダーで訓練するとすれば、失敗すれば即死を意味します。けれども、ヨットであれば死の危険を予感させつつ、その危険を指導者はコントロールすることができるというのです。
 主イエスが弟子たちを舟で訓練なさったのは、やはり、舟というものが死の危険をともないますがコントロールできる乗り物であるからでしょう。板子一枚下は地獄などというように、確かに舟に乗ることは常に死と隣り合わせです。それは実は人間の常の姿なのです。私たちは日常生活では、なんとなく「生きているのが当たり前」のように思っている愚かで傲慢な者です。しかし、実は私たちは常に死と隣り合わせの存在にすぎません。神様の許しがあってこの世に生を享けていますが、今もし神様がいのちを取り上げられるならば、私たちはちりに帰ります。その現実を見失って、私たちはぼんやりと当たり前のようにいのちをくださった神様に感謝することを忘れて生きている。そして、死への備えを怠っている。それは傲慢ということです。
 
 さて、「さあ向こう岸へ」と言われて弟子たちは舟に乗り込みました。ペテロ、ヤコブヨハネ、アンデレたちはガリラヤ湖の漁師ですから、舟はお手の物です。「久しぶりの舟だなあ」と心うきうきとしてさえいたでしょう。しかし、舟が湖の真ん中あたりに来ると、一天にわかに掻き曇り嵐が襲い掛かります。ヘルモン山から吹き降ろす冷たいヘルモン下ろしが、ガリラヤ湖上の温まった水蒸気たっぷり含んだ空気ににぶつかると、突然の嵐になるのです。
「4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。」
 嵐の海のただなかに、上下左右木の葉のようにもみくちゃにされる舟。大波をかぶってもはや沈没という事態になります。ガリラヤ湖の漁師出身の舟に慣れた弟子たちも、もはやこれまでとうような状況です。弟子たちは自分たちの限界を知り、自分たちの限界を認めました。これはとても大切なことです。彼らは自分たちの限界を認めたとき初めて、イエス様をたたき起こして叫びました。
「先生。私たちが死んでもなんとも思われないのですか。」
 自分の限界を認めるということは、人が人としてもつべき知恵です。神の前における人間としての限界を認めることを、聖書は「知恵の心」と呼ぶのです。人は運動能力においては、他の動物より劣っています。たとえば、ヒグマは普通100メートルを7秒で走るそうです。ふつうの男子高校生は100メートル13〜14秒程度でしょう。ウサイン・ボルトだって9.58秒ですから、ヒグマにすぐ追いつかれてしまいます 。「しかし、人間は知性において他の動物からあきらかにぬきんでているではないか。」と言う人があるでしょう。たしかに「神のかたち」に造られた人間には、特別な知性があります(創世記1:26,27)。けれども、人間はその知性で核兵器を作り、自らを滅ぼそうとしています。私たち人間は、神の被造物としての限界をわきまえて、神の前にへりくだって生きるときにのみ、人間としてまともな生き方ができます。
そして、私たちの決定的限界は、死によって限界づけられていることです。ヤコブは言いました。
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ4:13−15)
 自らの限界をわきまえて、神の前に謙虚に生きることが知恵です。


3.イエスというお方

 弟子たちが恐慌状態に陥っていたとき、イエス様は何をしていらしたのか。イエス様はなんと平安のうちに眠っておられました。「4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」嵐も波もイエス様の平安を乱すことはできなかったのです。イエス様にとって嵐にもまれる小舟は赤ん坊にとってもゆりかごのようなものでした。父なる神に信頼しきっていた御子イエス様にとっては、こんな嵐でオタオタすることなどありえません。父が生きておられ、父に愛されているのだから、父からこの世において与えられた使命が尽きるまで、自分の地上のいのちが失われることなどありえないからです。
 私たちにはそれぞれ地上の命が与えられています。それは私たちに神が託された生命ですから、おろそかにしてはなりません。その命をもって、神を愛し隣人を愛するという使命があって私たちは生かされています。その使命が尽きないかぎり、私たちのいのちがこの世から取り去られることはありえません。スズメ一羽地に落ちることさえ、御父の許しがなければないのです。神に愛されている兄弟姉妹。
 そうした完全な信頼を、イエス様は父なる神様に対してもっていらっしゃいましたから、こんな嵐の只中にあっても平安そのものでいらっしゃいました。そして、弟子たちについて「信仰の薄い人たちだなあ」と嘆かれたのです。私たちの父なる神に対する信仰はどうでしょうか。・・・信仰の薄い人だなあと嘆かれてしまうようなものですねえ。まあ、イエス様は神様の御子ですからかないませんね。

 さて、弟子たちにたたき起こされて、やおら立ち上がると湖と嵐に向かって命令なさいました。「 4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」のでした。
 そこで弟子たちは恐怖に包まれ、鳥肌が立ちました。どういう恐怖ですか。嵐はもう去った後のことです。彼らが感じた恐怖は、自分たちのそばにいらっしゃる、このイエスというお方についての恐怖でした。自分たちと同じ姿格好でいらっしゃるけれども、このお方は何者なのかという聖なるものに対する恐ろしいような思いです。

4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 このとき弟子たちが発した質問のことばは、まことに的を射たものでした。現代人はなかなかこういう的確な疑問をいだくことがありません。現代人は、こういう記事を見ると、たいてい「いったいどのようにしてこのことを行ったのだろう?」と問います。そして「たまたまそのとき嵐がやんだにすぎない」などという愚かな結論を出したりします。あるいは、ガリラヤ湖の嵐の科学的仕組みを解明してその奇跡を説明し尽くしたふうにして、自己満足するというばかばかしいことをしがちです。
弟子たちの問いかけは実にすばらしいものでした。弟子たちはhowではなく、whoという問いを発したのです。「いかに」でなく「誰」を問うたのです。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 「1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ福音書1:1-3)

 イエス様は天地万物の主であられる神の一人子であり、万物を創造なさったお方なのです。そのお方がご自分が創造なさった湖、嵐、被造物、自然法則に向かって「黙れ、静まれ」とおっしゃって、その嵐と湖がいうことを聞くのはまことに理にかなったことなのでした。逆に天地の創造主が嵐に向かって、黙れ静まれと叱り付けても、相変わらず嵐が吹いていたとしたら、それこそ理にかなわないことでした。

結論
 福音書にイエス様の行われた奇跡を見るとき大事な問いの一つは、イエス様は誰なのか?ということです。イエス様は、万物を無から創造し、これを支配していらっしゃる神なのだというのが、その答えです。
 私たちは自らが限界のあるもの、死すべきものであることをわきまえて、万物の創造者であり支配者でらう神に自分の人生をおゆだねして生きる賢明な者でありたいものです。