苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

律法の役割

 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督下におかれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係りの下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
(ガラテヤ3:24,25)


 以下、5章1節まで同じような議論が続く。「私たち」は律法の監督下にあったときは奴隷のようであったが、キリストに対する信仰によって義と認められ、かつ、自由な神の子どもとされた。ところが、ガラテヤ教会の人々は割礼派に惑わされて、またも律法の下に身を置き、奴隷のようになろうとしている。それはよろしくない。律法の監督下の身分から、自由な子とされたことをまずしっかりとはらに収めること。
 では、自由の子として、いかに生きるか?それは次の課題。

昨日の夕焼け