苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

隠された奥義としての神の知恵

「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(1コリント2:7)

 使徒パウロがいう隠された奥義としての神の知恵とは、キリストのことである。しかも、十字架につけられたキリストである(1コリント1:23,24)。滅びに至る人々は、十字架につけられたキリストをのべつたえる宣教のことばを愚かしいこととして、もっと気の利いたことばをのべつたえるべきだというのだろうが、使徒は十字架につけられたキリスト以外のことは語るまいと決心していた(2:2)。キリストが辱めの十字架にかかることによって罪人を救いたまうたという福音は、「この世の支配者たち」にはわからなかったのである。
 「この世の支配者」とは誰だろう。主イエスを十字架につけた、祭司長・長老たちとローマ総督ピラトだろうか。むしろ、その背後の神に背いた、空中の権を持つ支配者(エペソ2:2)つまり悪魔と悪しき天使どもの諸階級であると理解したほうがよいと思う。悪魔は、神の御子イエスの十字架の死が人間を罪と死から贖うためのわざであることを知らなかったし、理解することができなかった。できなかったから、栄光の主を十字架の辱めにあわせるために祭司長・長老・ピラト、そして、イスカリオテ・ユダをも利用してせっせせっせと働いたのだった(ヨハネ13:27)。彼らは栄光の主を恥辱のきわみの十字架にかけたとき、祝宴をもようしただろうが、十字架の出来事は彼らにとっての決定的敗北だった。十字架につけられたキリストは、隠された奥義としての神の知恵であった。
 C.S.ルイスは『ライオンと魔女』のクライマックスに、コリント書1,2章の「神の知恵」をしるしている。アスランが裏切り者エドの身代わりとなって、魔女と手下たちに辱めを受けて殺された後、復活するという記事である。魔女は、「世の始まりより前からのもっと古い掟」を知らなかった。「何の裏切りもおかさない者が進んでいけにえになって、裏切り者のかわりに殺されたとき、おきての石板はくだけ、死はふりだしにもどってしまうというふるい定め」である。

追記> 思うに、サタンは世の始まる前には存在しなかったので、世の始まる前からの掟である十字架の奥義を知らなかっただけでなく、その傲慢という本性ゆえに知りえないのではないだろうか。