苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

カインとアベル――礼拝の根本原理

創世記4:1−16
2016年5月29日 苫小牧主日夕礼拝

1.原罪

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。


「産みの苦しみを増す」ということばのとおり、エバは骨盤が割れてしまうのではないかと思うほどの苦しみをへて、カインを産んだ時、「私は主によってひとりの男子を得た!」と言いました。このことばは、先に神が彼女に与えたあの約束を意識してのことばだと解されます。つまり、「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」という、原福音が自分の出産によって成就するのだと彼女は信じ期待して、生まれたわが子カインを胸に抱いたのです。ところが、それは思い違いでした。子どもたちが成長していくにつれ(ここで話題になっているのはカインとアベルだけですが、続く記事を見ると他にも子どもはいたようです)、互いに争ったり、意地悪をしたり、親にウソをついたり、反抗したりし始めたのです。その有様は、振り返れば親自身の姿でもありました。そうして、ついに、息子のカインは、救い主どころか、人類の歴史における最初の殺人者となってしまうのです。自分が腹を痛めて産んだ子どもたちの一人が、もう一人を殺してしまうという、母親にとって、これ以上に悲惨な経験があるでしょうか。最初の母親は、このような経験をしなければなりませんでした。そうして、あの日、蛇の誘惑にのせられて、善悪の知識の木の実を盗って食べて神に反逆したことがこれほどに恐ろしい結果を生んでしまったことに慄然とさせられるのです。
 罪は親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へとどのようにしてか科学的には解明できないのかもしれませんが、事実、遺伝されてきました。これを神学の言葉では「原罪」と言います。人は、生まれながらに罪の性質を帯びて生まれてくるのです。
 ダビデはあのバテシェバ事件の後に、このように嘆いています。詩篇51

51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、
 あなたの豊かなあわれみによって、
 私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、
 私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
 私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
 あなたの御目に悪であることを行いました。
 それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、
 さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、
 罪ある者として母は私をみごもりました。

 私たち自身も経験しているとおり、私たちは生まれながらにして、罪の性質を帯びているものなのです。


2.真の礼拝の原理・・・①贖罪の犠牲が必要 ②礼拝に自己流はだめ

(1)贖罪の犠牲
 3節に「ある時期になって」、成長したカインとアベルとは、主のへのささげ物を持ってきました。彼らは父アダム、母エバから、造り主である神様に対する礼拝、ささげものについて教わって育ってきたのでしょう。アダムが罪を犯した妻をエバ、すべていのちある者の母と呼んだ、あの信仰告白に基づいて礼拝者として生活していたことがうかがえます。
 アダムとエバとは、自分たちが神の前にどんなことをして楽園を追放されてしまったのかを話し、それにもかかわらず、神は救い主を到来させる約束を与え、獣の血を流して罪を恥を覆う衣をくださったのだと話してきたわけです。この神様に、礼拝をささげて生きることを父と母は、子供たちに伝えていました。
 さて、カインは農夫になり、アベルは羊飼いになりました。そうして、神に礼拝をささげるためにやって来ました。この4章のささげ物の記事は、旧約聖書の土台・旧約的礼拝の土台を成すモーセ五書の中で最初に出てくる礼拝の記事です。そういう意味で、真実の礼拝とは何か、つまり、聖書的礼拝の根本原理を知るために重要な記事として読まれるべきであると思います。

4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 なぜ神様はアベルのささげものは祝福して受け入れ、カインのささげものには目を留められなかったのでしょうか?カインもアベルもそれぞれ労働の実をささげたのに、カインの何がいけなかったというのでしょうか。ある人たちは、4節に「羊の初子の中から、それも最上のものを」とあるのを取り上げて、アベルは最上のものを神様にささげたが、カインは畑の残りカスか傷物を持ってきたからではないかという解釈をします。つまり、心をこめた礼拝であったか、形だけのおざなりの礼拝であったか、という違いであるというのです。そういう読み方も不可能ではないでしょう。しかし、カインの主へのささげものが傷物であったとは、どこにも書かれていないのですから、それは読み込みすぎでしょう。4節は口語訳聖書、文語訳聖書、新共同訳では単に「肥えたもの」とあるだけで、「最上のもの」とはなくて、ヘブル語本文にも単に「肥えたもの」とあるだけです。「最上のもの」は新改訳の勇み足という気がします。
 ここに記述されていることで、両者のささげ物のちがいとしてはっきりとしていることは、アベルのささげ物が羊であったのに対して、カインのささげ物は畑の産物であったという一点です。カインは農夫なんだから、農産物をささげるほかなかったわけではありません。もし彼も羊をささげるべきだと考えたなら、アベルに頼んでよい羊を農作物と交換に譲ってもらえばよかっただけのことです。カインはあえて、そうしなかったのです。
 カインとアベルは、動物の犠牲の血が流されて自分たちの罪が覆われたという経験をした父母から、「罪が赦されるためには血が流されなければならない」という、礼拝の根本原則を幼いころから教えられてきたのだと考えるべきだと私は考えます。しかし、カインはあえて、それに背いて、自分流のささげ物を神の前に持ってきたのでした。ここにカインの問題があります。礼拝は、人間が心をこめて、一生懸命にすればいいというものではないのです。礼拝は、それを受けてくださる神様がお定めになった原則にしたがってささげなければならないのです。礼拝のregulative principleといいます。規制原理です。カインの過ちは、神の定めた礼拝の原則を無視して、自己流の礼拝をささげたということにあります。かりにどんなに熱心であったとしても、それは神に喜ばれるものではありません。神が必須とされる礼拝の要素を省くこと、神が禁じていることを人間的工夫としてくわえることといった自己流の礼拝は偶像礼拝に等しい罪です。
 
 神様は、アダム以来罪に落ちてしまった私たちの礼拝に関して、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)という根本原理をお定めになっています。旧約聖書レビ記における祭儀のなかには、全焼のいけにえ、罪のためのささげ物、和解のいけにえなどとともに、穀物のささげものというものも含まれていますが、穀物のささげものは単体でささげられるものではなく、血を流す生贄といっしょにささげられるものでした。
 旧約時代には牛や羊の動物犠牲が繰り返しささげられましたが、それらはイエス・キリストの十字架の犠牲という本体を指差す影でした(ヘブル10章)。新約時代には本体であるキリストの十字架の犠牲がささげられたので、もはや動物犠牲をささげる必要はなくなりました。いや、必要なくなったどころか、もし今日動物犠牲をささげるとしたら、それはキリストの十字架の贖いの完全性を否定することになります。
 イエス様の十字架の死による贖罪を抜きにして、私たちの礼拝は成り立たないものであることを、覚えなければなりません。イエス様を抜きにして、私たちは父なる神に近づくことはできないのです。キリスト教は道徳宗教ではありません。キリスト教は、贖罪宗教なのです。聖餐式は、そのことをもっとも明瞭に表しています。私たちの教会の礼拝では毎週聖餐式を行うわけではありませんが、聖餐台を見るたびに、あのイエス様の十字架の犠牲のゆえに、私たちの礼拝が許されているのだということを思い起こしていただきたいと思います。


(2)熱心でも自己流はだめ・・・礼拝は神の求めたまうものを
 礼拝に関して、私たちが熱心であるべきことは、自分たちが陶酔することに関してではなく、礼拝における神の求めに対して忠実であることに関してです。神の求めに忠実に礼拝をささげるならば、神はそこに御霊の喜びをくださいます。
 聖書の歴史の中で、熱心ではあるけれど、自己流の礼拝をささげて、神に打たれた人が他にも出てきます。ひとつの例は、大祭司アロンの息子ナダブとアビフです(レビ10章)。彼らはなにか人間的な工夫を加えたのか、異教的な工夫を加えたのか詳しくはわかりませんが、「異なる火」を神の前にささげて、神の火に焼かれてしまいました。
 また、サウル王は妙に信心深い人でした。ですからペリシテとの戦の前にいけにえをささげないと、負けるんじゃないかと恐れました。彼にとって神へのいけにえは一種のおまじないめいたものになっていたのではないか、という印象があります。それで、戦の前に預言者サムエルがささげるべき神へのささげものを自分の手でささげてしまい、神の怒りをこうむりました(1サムエル13章)。また、同じく第一サムエル記15章のアマレクとの戦いでは聖絶の命令が出ていたものを惜しくなって残しておいて、主にささげようとしました。やはり、自己流の礼拝です。そのとき、主からの言葉があって、サムエルは言いました。

1サムエル
15:22
  「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを
  喜ばれるだろうか。
  見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。
  あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 こうしてサウル王はその王位から除かれることになります。
 神様は、私たちの日常的な行動については、相当わたしたちの自由裁量にまかせていらっしゃるのですが、こと礼拝については、「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしては成らない。」(申命記12:32)というのが原則です。新約時代には事細かな礼拝の定めはないものの、キリストの十字架における贖罪が礼拝の根本原理であるという点は、けっして譲りえないところです。


3.兄弟殺しとさばき

 神はカインが危険ながけっぷちに立っていることを見て、彼を戒められます。

4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 神から戒めを受けたなら、カインは「私が間違っていました。あなたがお定めになった礼拝のささげ物でなく、自分勝手なささげものをもってあなたの前に出たことが間違っていました。私は傲慢でした。赦してください。」と悔い改めるべきでした。しかし、彼は自分の罪を悔い改めるのではなく、さらに心をかたくなにしてしまいます。
 神から悔い改めを迫られたならば、ただちに悔い改めるべきです。そうしないと、さらに恐ろしい罪を犯すことになります。サタンがそのかたくなな心に付け入るのです。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」と、神は警告なさいました。

  4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
4:9 【主】はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

 カインの心はまったくすさんでいました。自分は弟の番人なのでしょうか?とは。神の定めに背いて自分流のささげ物をして拒絶され、神から悔い改めを求められたら、かえって心かたくなにして、今度は正しいささげ物をした弟を逆恨みしてしまったカインでありました。なんという罪深く、なんという悲惨なことでしょうか。

 カインはこのあと土地にのろわれ、土地は彼のために力を生じなくなります。彼は地上をさまようさすらい人となります。この後については、次回また味わいたいと思います。


結び
 今夕とくに学んだことは、聖書的な礼拝の根本原理ということです。礼拝については、神がお定めになった原理に、人間の勝手な熱心で足したり引いたりしてはならないということです。新約時代の礼拝については、旧約聖書レビ記にしるされたようなこと細かな礼拝儀式の規定はありません。しかし、旧約新約を通じて貫かれ、決してゆるがせてはならない礼拝の根本原理は、「血を流すことなしに罪は赦されない」ということです。旧約時代には、動物犠牲の血が流されました。新約時代にはもろもろのいけにえの本体である主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた代償的贖罪のわざを根拠として、私たちは神に近づくことができるのです。

ヘブル9:12 「(キリストは)やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」