苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの十字架の死が、われわれの罪の代償であったこと

 贖罪論についてノートを作っています。そんな中、あるブログに引用された、『殉教と殉国と信仰と』(高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著、白澤社発行・現代書館)の高橋氏の対話を読んで驚きました。私はその本をまだきちんと読んでいないので、とりあえずのメモです。
 キリスト者ではない高橋氏が<キリストの死を犠牲死という捉え方をすると、これに倣う殉教を尊いものだという考えを生み出し、殉国を美化する背景をつくってしまう。キリスト教神学には、キリストの死を犠牲死としない立場もあると聞くのだが。>といった内容で問いかけると、なんと森司教は「キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。・・・ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。」と応答するのです。・・・びっくりしました。ウソですから。

 実際には、新約聖書は、福音書にも書簡にも、旧約聖書レビ記祭儀律法を背景として、キリストの十字架の死が贖罪のための犠牲死であったという記述で満ちています。

マルコ10:45 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マタイ26:28「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
ヨハネ1:19「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」

 書簡はどうでしょう。ヘブル書はレビ記の贖罪犠牲の律法を背景として、御子イエスの死が贖罪のための犠牲死であったことを語っています。
 パウロもペテロもヨハネも同じようにキリストの贖罪の死について発言しています。
ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
1ペテロ1:18、19 「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
1ヨハネ2:2 「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」
ヨハネ4:10 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

以上に見るとおり、新約聖書は、キリストの十字架を、人間の罪のための犠牲・いけにえとする言葉に満ちています。

 また、関連して、司教は、「キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまう」と主張します。その意味は、罪の賠償のためにいけにえを要求するような神観は残忍で受け容れがたいということでしょう。罪には賠償などは求めず、ただいいよいいよと赦してくれるのが、彼の理想の神観なのでしょう。
 実は、この種の主張は「現代の神学者」が言い出したことではなくて、16世紀の反三位一体論者ソッツィーニと、その後のシュライエルマッハー以来の合理主義・自由主義神学における典型的な主張です。もっとさかのぼれば、ペラギウスまで行くでしょう。
「ソッツィーニの議論はこうである。赦しを与えるということは、賠償を求めることと矛盾する。また罪ある者(罪ある人間)から罪無き者(イエス)へと懲罰の対象を移すことも公正さと矛盾している。また、一人の存在の一時的な死は(つまりイエスは死んで三日目に復活した)、多くの者たちの永遠の死の本当の代行とはなりえない。そして、最後に完全な代行的充足 なるものが本当に存在するのだとしたら、それは、我々が罪の中にいつまでも生き続けて構わないことを許すことになる。」(J.I.パッカーの贖罪論にかんする書、いのちのことば社から近刊)
 
 私は、あの司教が「キリストの十字架の死が、贖罪のための犠牲死であるということばが福音書にはない」と言っているのを読んで、「とんでもないウソだ。司教がそんなことを言えば、聖書を知らない読者をミスリードするではないか。」と憤りを覚えてしまいました。しかし、コリント書第一1:18を思い出して、ああ、そうだったと思い直しました。
「十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」
また、同2:14も。
「 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」
 実際、十字架のことばは、ほんとうに神様が悟らせてくださらないかぎり、決して悟りえないのだということを、これまで私はなんども伝道者として見てきました。自分自身もそうでした。憤るよりも、祈るべきでした。
 とはいえ、件の司教は「福音書にも新約聖書全体にも、キリストの死を贖罪のための犠牲死であったという記述はたくさんありますが、わたしとしては受け容れがたいと感じているんです。」と答えるべきでした。
 それにしても不思議ですね。聖書に精通しているといわれる司教が、なぜでしょう。そういえば、イエス様の時代の高位聖職者や偉い聖書学者たちにも、神の御子がナザレの大工として来たことが、どうしてもわかりませんでした。イエス様のことばを思い出します。
「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ11:25)