苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「あなたはどこにいるのか」

創世記3章8-19節

2016年5月15日 苫小牧福音教会

1 園を歩き回る主の声

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。


 「園を歩き回られる神である主の声」という不思議な表現に、心ひきつけられます。主なる神は天地万物の創造主であり、無限のお方であり、絶対者であり、超越者でいらっしゃいます。しかし、主なる神は、親しく、園を歩き回って人に声をかけてくださるお方なのです。
古代教父エイレナイオスは「園を歩き回られる神である主の声」は、三位一体の第二位格つまり受肉以前の御子を指していると理解しています。御子が、啓示において私たち有限な人間にとっては見えない絶対者である父なる神を、私たちにも見えるようにしてくださる役割を担ってくださるお方であることをかんがみると、たしかに、エデンの園において最初の夫婦と親しく交わられたお方は、三位一体の第二位格である御子だと推論することには一理も二理もあります。
というわけで、私たちは聖書第一巻である創世記の第三章、エデンの園の記述において、すでに、後に人となって私たちの間に住まわれ、あの緑したたるガリラヤの地を歩き回られる御子のシルエットをここに見るのです。
「緑も深き若葉の里 ナザレの村よ 汝がちまたを こころきよらに行き交いつつ 育ちたまいし 人を知るや」
天地万物の主であるいとも高きお方は、同時に、私たちにとっていとも近きお方となのです。
アダムと妻は、神に背いてしまう前には、主なる神と親しい人格的交わりを経験していたのでしょう。日中の強い日差しが去って「そよ風の吹くころ」になると、主なる神はいつも園を歩いて回られて、アダムと妻と楽しい交わりのときをもたれたのでしょう。「アダムよ、女よ、今日、園の中ではどんなことがありましたか?」と主に問われると、アダムは喜びに満ちて「主よ。今日は、あのスズカケの木の枝にかけられた小鳥の巣の卵がかえって、雛が三羽生まれました。どの子も元気です。」などと報告します。主は目を細めて、いっしょに喜んでくださるのです。
そんな親しい平和な神と人と被造物の交流が、エデンの園にはあったのでした。エデンの園というのは、神がわれらとともにいます場つまりインマヌエルが現実であった場でした。


2 あなたはどこにいるのか?

(1)身を隠した
 ところが残念なことに、今日はちがいました。主の御声が聞こえると、「人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。彼らは禁断の木の実を食べる前は裸でも互いに恥ずかしいと思わなかったのですが、食べたとたんに人間同士まず互いに裸、格別、自分でもコントロールできなくなってしまった性器を見られることを恥じるようになりました。そして、あれほど喜ばしい主なる神との人格的交流も、恐ろしくてできなくなってしまいました。
 人間は、本来、造り主である神との人格的交わりと、神のかたちにおいて造られた隣人との人格的交わり、そして、被造物たちとの交流のうちに生きているものでしたが、神の戒めに背いたとき、一人ぼっちになってしまったのです。夫は妻から責められるのではないかとびくびくし、妻は夫を恐れ、また、隣人から、そして誰よりも神から責められるのではないかとびくびくと恐れるようになってしまったのです。あのイチジクの葉っぱの腰覆いは、そういう恐怖の表れであるともいえましょう。神にそむいたときに、人は自分の周りに壁を造ったのです。
出来もしないことをできると言ったり、やたらと自分の経歴や門閥を誇ったり、名刺に必要もないのに肩書きをずらずら書き連ねたり、時には経歴を詐称してまで虚勢を張るというのは、実は、神と隣人との喜ばしい人格的交わりを失い、孤立してしまった人間が自分の周囲に設けた惨めなとりでなのです。


(2)あなたはどこにいるのか?
 木陰に身を隠したアダムに神は声をかけます。

3:9「あなたは、どこにいるのか。」

 神は「あなたがたはどこにいるのか?」と呼びかけるのでなく、「あなたはどこにいるのか?」と呼びかけられました。私たちは神から罪を追及されると、「みんなが」「あの人も」と言いたくなってしまうのですが、神は「あなたはどこにいるのか?」と問われます。私たちは、悔い改めて神に立ち返るとき、独りにならなければなりません。
 特にアダム夫婦の場合、神は夫であるアダムを契約のかしらとして認めていらっしゃいますから、まずアダムに責任を問われたのです。しかし、アダムはつべこべと言い訳にならない言い訳をします。

3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 アダムは、妻と神に、自分の責任を転嫁しました。「あの女が私に取ってくれたんですよ。あの女をくれたのは、あなたではありませんか。」というのです。この台詞をかたわらで聞いていた妻は、目の前が真っ暗になったでしょう。ほんの少し前、裸であっても何の恥ずかしいと思うこともないほど信頼していた夫が、今は、自分を審判者の前に「こいつが悪いんですよ」と突き出しているのですから。
 神に背いたとき、人間に何が起こったのか?第一に、彼は自分自身を支配することできなくなりました。彼のうちの欲望は暴走して、彼の精神や意思を無視して、欲望は暴走するようになりました。そして、神との関係が破れたとき、夫婦・隣人との関係にもひびが入ってしまったのです。
  次に神は女を追及しますが、やはり彼女は蛇(サタン)に責任を転嫁するのです。

3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 これはまさにサタンの思う壺でした。もし、アダムとその妻が、神の前にそれぞれに自分の非を認めたならば、サタンの計略は半分は破れたことになったでしょうが、アダムと妻はまんまとサタンの計略にかかって、それぞれの責任を認めませんでした。

3 呪い

 神は蛇と女と男を順にのろわれます。

(1)蛇

  3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。
  「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 こののろいの言葉には、二通りの理解があって、のろわれる以前、蛇は他の動物と同じように足があったけれど、のろわれてから足が無くなったという理解がひとつ。もう一つは、もともと蛇は足が無くてはらばいであるいていたけれど、それにのろいとしての意味が加えられたという理解です。聖餐式においてパンと葡萄液に、主イエスのからだと血潮の意味が加えられたように。どちらの解釈も可能です。
 15節のことばは原福音と呼ばれるもので、最初のメシヤ預言です。詳しくは次回に学びます。

(2) 女への呪い
次に女への呪いです。

3:16 女にはこう仰せられた。
  「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。
  あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
  しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

 女性特有の苦しみとして子育ての苦しみと夫婦関係の苦しみが挙げられています。女性にとって出産と子育ては本来祝福です。神は人間を最初に造ったときに、「産めよ、ふえよ、地に満ちよ」と仰せになったでしょう。けれども、その祝福にのろいが加わりました。ですから、赤ちゃんを産むことは素晴らしい喜びですが、そこには苦しみがともなっています。海の苦しみそれは子育ての苦しみの代表として挙げられています。
 女に対するもう一つの呪いは、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する」ということばです。この「恋い慕う」ということばは、4章において神がカインに警告したことばと同じことばが使われています。「罪があなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。」つまり、この「恋い慕う」というのは、相手を誘惑的にコントロールしようとするという意味なのです。ちょうどデリラがサムソンを恋い慕って、彼の秘密を聞き出したように。しかし、もし妻が「夫にしたがいなさい」という神の命令に背いて、自分が夫をコントロールしようとするならば、そうすればするほど、夫はあなたを強圧的に支配することになるんだよ、という警告です。

(3) アダムへの呪い

 そして、アダムへの呪いです。それは土地つまり被造物がアダムに背いて、アダムの労働の実りをむなしくしてしまおうとするという呪いです。

3:17 また、人に仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

 労働は神が人類の堕落前に与えられた祝福ある務めです。実際、私たちは仕事をすることによって生きがいを感じながらも、もう一方では、仕事によって体を壊したり、仕事中毒になって家庭を破壊してしまったりするのです。仕事には本来の祝福とともに、のろいが入り込んでいます。「土地はあなたのために、いばらとあざみを生えさせ」とあるように、本来、人間の支配管理のもとに従順であるべき被造物世界が、アダムが神に背いて以来、人間に敵対するようになったのです。ローマ書8章の表現で言えば、アダムとともにのろわれて被造物は虚無に服することになったのです。
 実際、被造物世界には、素晴らしい神の知恵や愛や優しさを反映しているなあと思えるものがたくさんあると同時に、眉をひそめたくなるようなものがあります。納豆を作ったり、味噌を作ったりするのに有用な微生物がいると同時に、食べ物を腐敗させ食中毒を引き起こす微生物もいます。素晴らしく美しい動物たちもいますが、ミケベツのヒグマの事件のように、獣が人間を襲うこともあります。雨が降って大地は潤いますが、降りすぎて大洪水にもなります。私たちが生かされているこの自然環境は祝福とのろいが交錯しているのです。
 子育てと出産と結婚生活にも祝福と苦しみが交錯していましたし、労働にも祝福と苦しみが交錯していますし、被造物世界も祝福と呪いが交錯しているというのが、アダムが堕落して後の状況なのだと、私たちは創世記から教えられます。そして、それが実際に私たちが生きている世界であることを私たちはよく知っているでしょう。聖書はまことにリアルな書物です。
 私たちは、子育てに、結婚生活に、仕事において、いろいろな苦しみを通しても、自分の罪と神の御旨を悟って、へりくだって生きていくべきなのでしょう。

結び・・・希望

 「あなたはどこにいるのか?」と問われるならば、私たちは「私は、この悲しみと罪に満ちた世界におります。ああ、私自身が罪人のかしらです。」と答えるほかありません。
しかし、そんな悲しみに満ちた世界に住む私たちに、神様は一つの約束を、ヘビに対するのろいの中で告げてくださいました。すなわち、女の子孫がサタンに対して勝利を収める日が来るのだという約束です。これは、メシヤつまりキリストの到来を告げる聖書中最初の預言です。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

 人間は罪に陥りました。取り返しの付かない大きな罪を犯したのです。しかし、人間には取り返しがつかなくとも、神はただちに救いのために手を打ってくださいました。今、私たちは長らく待望された救い主を私たちの救い主として与えられていることを心から感謝し、このお方を希望なく生きている人々にあかししてまいりましょう。


<説教後反省>
 テキストを長く取りすぎました。二度に分けて話すべきでした。