苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人間をとる漁師に

2016年5月8日 苫小牧主日朝礼拝

  写真出典 http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israel017.htm

1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。 1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。 1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。


序 ガリラヤ地方
 主イエスが御在世当時イスラエルの国は、南がユダヤ地方、真ん中がサマリヤ地方、そして北がガリラヤ地方と呼ばれました。国の中心は、都エルサレムのあるユダヤ地方であり、主イエスが育ったガリラヤ地方のナザレは、日本で言えば東北地方か北海道にあたる地域です。しかし、ガリラヤ地方は、乾燥地帯であるユダヤ地方に比べて豊かな森があり、「緑したたるガリラヤ」と呼び習わされます。讃美歌にキリストの生涯を歌った一曲があります。
「みどりも深き若葉の里 ナザレの村よ ながちまたを 心きよらに 行き交いつつ 育ちたまいし人を知るや」
 ガリラヤ地方はなぜそれほど緑に恵まれているか。それは北方のヘルモン山に降った雨や雪が伏流水となって地面にもぐりこみ、それがあふれ出てくるガリラヤ湖があるからです。ガリラヤ湖の面積は、北海道でいえば網走の近所のサロマ湖くらいのものです。そこで獲れる魚はペテロの魚と呼ばれるティラピアという白身魚がおいしいものです。イスラエル旅行に出かけたら、肉でなく魚がおすすめだと言われます。肉は血抜きが完璧でパカパカの草履のようだそうです。
主イエスガリラヤ湖のほとりを歩いているとき、最初に弟子として召したのは、このガリラヤ湖の漁師たち、シモン、アンデレ、ヤコブヨハネでした。漁業はガリラヤにおける基幹産業でした。彼らの社会的な位置というのは、いわば、苫小牧における王子製紙の社員やホッキ貝の漁師さんたちみたいなものと言えばよいでしょうか。


1 主イエスは予め彼らを知っていた

(1)シモンとアンデレはイエスに会ったことがあった
 さて、主イエスはシモンとアンデレに「わたしについて来なさい」と呼びかけました。この言い回しは、当時の、律法の教師ラビが人を弟子としてとろうというときの決まったせりふだったといわれています。それにしてもマルコ福音書だけを読んでいると、彼らは通りかかった見知らぬ人イエスからいきなり「わたしについて来なさい」といわれて、網を捨てて従ったというように見えて驚いてしまいます。日本の子どもだったら、「知らないおじさんに『お菓子食べるか?』と声かけられても、ついていっちゃだめよ。」としつけられていますから、ついていかないでしょうね。それなのに、シモンとアンデレという青年は立ち上がってついていってしまいました。
実は、彼らはイエス様と初対面ではありませんでした。ヨハネ福音書の記事によれば、以前、シモンとアンデレの兄弟はユダヤ地方でバプテスマのヨハネの弟子でした。アンデレは、預言者ヨハネがイエスを指差して、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊!」と叫んだので、イエスについていき、兄シモンをも主イエスのもとに連れてゆきました。そして、シモンも主イエスと一晩過ごしてさまざまのお話を聞いてお交わりがあったのでした。
 その後、バプテスマのヨハネが逮捕・投獄され、シモンとアンデレは失意のうちに故郷のガリラヤに帰って、家業である漁師の生活にもどっていたのでした。彼らは師と仰いだヨハネを失い、自分たちの生きる目標を見失ってしょんぼりしていていましたが、脳裏から、ヨハネが主イエスを指差して言った「見よ。神の小羊」ということばが離れることはありませんでした。彼らのあとに召しを受けるヤコブヨハネにも似た事情があったのか、漁師仲間としてシモンとアンデレからイエスについて教わっていたと考えられます。
 そこに、主イエスもまたユダヤ地方を離れてガリラヤにもどってこられ、そして漁師にもどっていた彼らに声をかけたのでした。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

(2)主イエスは彼らを知っていた
シモンは後にペテロというニックネームをいただき、主イエスが復活して聖霊を注がれて初代キリスト教会が始まって後は、エルサレム教会の重鎮となります。アンデレはペンテコステの後に、小アジア、スキタイそして黒海からヴォルガ川にそってロシア方面にキリストの福音を伝えに言ったとオリゲネスが書きとめています。
ヤコブ使徒の働きによると、ヘロデ・アグリッパのもとで処刑され、十二使徒のうち最初の殉教者となっています。ヨハネヨハネ福音書と三つの手紙と黙示録の記者となり、老いてのち、愛の使徒と呼ばれる人となっています。ヤコブヨハネはイエス様から「ボアネルゲ」つまり雷の子というあだ名を付けられていますから、生来、気性の荒い人たちだったのでしょう。また一説によると、イエスが彼らに「わたしについてきなさい」とおっしゃったときに、親父さんを捨ててさっさと行ってしまったので、後ろからお父さんが「この大馬鹿者!!」と雷を落としたからではないかとも言います。だとすると、ボアネルゲは「雷親父の子」ということになります。
しかし、主イエスは、彼らがイエスを知る前に、弟子としてお召しになる彼らのことをあらかじめご存知でした。ユダヤヨルダン川のほとりで知ったというのではなく、はるか前からのことでした。それこそ、母の胎内にやどったときから、いや、母の胎に宿る前です。あの若い日の預言者エレミヤは言っています。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、
  あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
  あなたを国々への預言者と定めていた。」エレミヤ1:5

 福音の宣教者への召しというのは、主イエスの主権に属することです。人間が志す前に、主の側のご計画があります。主は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命したのです。」とおっしゃったでしょう。


2 人間をとる漁師の務め

さて、主は伝道者を表現するに当たって「人間をとる漁師」というおもしろい表現をおもちいになりました。それは、呼びかけられた彼らにとって一番な身近な譬えであったからでしょう。もし彼らが農夫であれば、世界の畑から収穫をする農夫にしてあげようとおっしゃったかもしれません。

(1)沖合いに出る
漁師は、沖合いの漁場に出て網を下ろして、魚をとり、そして港に帰ってきます。そのように、福音の宣教者が遣わされる沖合いの漁場は「この世界」です。まだイエスさまによる救いを知らない人々がいる世界です。マタイ伝の28章では「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を」とあり、マルコ伝の末尾には「全世界に出て行って」とあり、ルカ伝には「エルサレムから始まってあらゆる国の人々に」とあります。
漁師が岸辺に座っていて網をつくろってばかりいるだけでは一匹の魚もとれません。同じように書斎で聖書の研究をしているだけでは、誰一人救いに導くことはできません。「漁場に出て行って」、網を下ろすことが必要です。この世に、教会の外に、この世の人々にあらゆる手を尽くして、福音の網を投げることが必要です。漁の上手下手はありましょうし、それ以前に、漁場のよしあしがあることも事実ですが、とにもかくにも遣わされたところに出て行って網を投げることが必須です。教会堂の主の日の説教壇でなく、外の人々に福音を伝えるのです。
エス様のみことばの御用を見てみると、「宣べ伝えた」ケーリュッソーということばと、「教え」ディダスコーという二つのことばが出てきます、「宣べ伝え」というのは未信者にむかって「悔い改めてイエス様を信じなさい」と語ることです。他方、「教え」はすでにイエス様を信じた人に向かってイエス様の弟子として成長することを促すみことばです。ですから、原則的には教会の外で福音を宣べ伝え、教会の中では「教え」を語るのです。
私たちはみことばを毎週聞くことができますが、苫小牧にもまだまだイエス様の十字架の福音の意味を知らないという人が山のようにいます。私たちは何とかして、教会の外の人たちに、イエス様の福音を届けなければなりません。


(2)網を下ろす
では、沖合いに出て下ろす網とはなんでしょうか?伝道者が下ろす網は福音です。そして、キリストの福音という網によって捕らえられ集められたお魚の群れが教会です。ポール・マイネアという人が書いた、『新約聖書における教会のイメージ』というおもしろい本があります。教会のイメージとして「神の民」「キリストのからだ」「生ける石の神殿」「キリストの花嫁」「オリーブの木」「ぶどうの木」などといったものが挙げられています。そして、それぞれに意味があります。が、そのなかの一つに「福音という網で捕らえられた魚たち」があります。
私たちはそれぞれに浮世という海の中で、小さな魚の群れのなかの一匹のように、群れが右に向かうなら自分も右に、群れが左に向かうなら自分も左にと、この世の流れにあわせていたものですが、ある日、キリストの福音という網に捕らえられました。私の罪のために、神の御子が人としてきてくださり、十字架の死と復活をもって私の罪を償い、救ってくださったという、あの福音にとらえられたのです。

漁師が魚を港に持ってくるように、人間をとる漁師は福音の網によってとらえた人々を主イエスの御許に連れてきます。大きい魚も小さな魚もいるでしょうし、年寄りの魚も若い魚もいるでしょう、タイやヒラメやカレイやイワシやろいろですが、みんなで、永遠の港へと行くのです。


3 伝道者への召しは絶対・・・網を、舟を、父を置いて従う

 主イエスから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられると、シモンとアンデレは「すぐに」網を置いて主イエスにしたがいました。そのあと、漁師仲間であったヤコブヨハネは、やはり「すぐに」舟も、そこにいた父も雇い人も後にして主イエスについていきました。職業も、財産も、親までも、後にして主イエスにしたがったのです。

1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。 1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

 彼らも主イエスのことばにただちに応じて、立ち上がりました。網だけでなく、網と、父と雇い人と舟も残して主イエスについていったのです。彼らは、仕事も財産も親さえも後ろにおいて、主イエスにしたがったのでした。網つまり彼らの職業を捨て、父を後にしてついていったのです。こんなことがありえるのだろうかといぶかる人もいるでしょう。
 主イエスのおことばには力があります。二千年来、主イエスから伝道者への召しのことばを受けた人は、同じように立ち上がってきました。今日でもそうです。主イエスの福音のありがたさを知らされたとき、他のそれまで価値あるものとして大事にしていたもの、しがみついていたものが、さしたる価値のないものになってしまいます。主イエスが福音の宣教のために伝道者を呼び出される召しは絶対的なものです。漁師であれ、商売であれ、ビジネスマンであれ、大工さんであれ、看護師であれ、医師であれ、教員であれ、それぞれの職業は、神が創造において定められた文化命令・労働命令に対する応答として意味がある働きです。泥棒とか人殺しというような、それを行うこと自体が罪でないかぎり、すべての職業は神の前にそれなりに一般恩恵にかんする職務として意義あるものです。
 けれども、キリストの福音の宣教という特別恩恵のための職務への召しがあったときには、それらすべてを後にしてでも立ち上がることを主イエスは要求なさいます。
 また、「あなたの父母を敬え」というのは、神ご自身が十戒の中で人間として生きる道においてとても重要なこととしてお定めになったことです。十戒を前半と後半に分けるなら、前半は神への愛、後半は隣人愛の戒めですが、その後半の筆頭が「あなたの父母を敬いなさい」です。けれども、もし福音宣教のために伝道者として立つことを、主イエスがあなたをお召しになったならば、たとえ親が反対したとしても、立ち上がらねばなりません。伝道者としての召しは絶対のものなのです。それは、福音の絶対性ゆえです。福音を受け入れるか、それとも、拒否するかによって、人の永遠の運命は決定するのですから、福音にはなにものにも換えがたい絶対の価値があります。
 こうした伝道者への召しは、今日でも同じようになされています。私が神学校に入ったときにも、同期生の中には、安田生命をやめてきた人、小児科医を廃業してきた人、父親に勘当されて夏休みにも帰る家のない人たちがいました。主から伝道者の召しを受けるならば、人はすべてを置いて立ち上がらなければなりませんし、また、立ち上がらざるを得ないのです。


結び

適用1 若くしてイエス様の救いにあずかった人は、それは特別な恵みなのです。多くの人は人生の多くをすごしてから真の神を知り、「もっと早く、イエス様を知っていたら、違った人生があったのに」と思うのですから。あなたには、「もしかしたら、主イエスはこの自分を福音の宣教者としてお召しになっているのではないか?」とまじめに考えて祈る義務があります。パウロがいうように、「福音を語らないではいられない。」という福音を聞いていない人々に対する負債感というのが、伝道者としての召しのしるしの一つです。
あなたに、もし福音を伝えなければという負債感があるならば、もしかしたらあなたも伝道者に召されているのかもしれません。だとすれば、主にみこころを求めてそのように祈るべきです。そして、主が自分を伝道者として召していらっしゃるのではないかと思うならば、まず牧師に相談してみてください。召しは主観的な面だけでなく、客観的な面から確認する必要があります。
適用2 牧師・宣教師への召しは一部の信徒に与えられるものです。しかし、キリストの証人としての召しはすべてのキリスト者に与えられています。「あなたがたのうちにある希望について説明を求められたら、説明する用意をしておきなさい。」とペテロは命じています。「キリストの救いってどういうことなんですか?」と質問されたら、「アワアワ」としか答えられないのではいけません。あなたは準備ができているでしょうか。その準備は、すべてのクリスチャンがしておかねばなりません。自分の身に起こったことを、お話するのです。自分はイエス様を知る前は、こうでした。それが、あるときに救い主イエス様を受け入れたら、心持はこんなふうになり、生活はこんなふうに変わりました、とお話すればいいのです。<使用前、使用、使用後>みたいな順序で、単純に自分にイエス様がしてくださったことをお話するのです。

 主はあなたにも言われます。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」