苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「人間として生きる」(その2) 神のかたち=キリストを目指して

 北海道宣教区春の研修会でお話した二つ目のお話です。


ヨハネ福音書1:1−3と14
ヨハネ福音書17:5
コロサイ1:15


1.すべての人は「神のかたち」に造られた

学問のすすめ」冒頭、そして、米国独立宣言、バージニア州憲法の背景である聖書は、天地万物の創造主が、人間を「神のかたち」において造られたのだと教えています。ここに人間の尊厳の根拠があります。職業、貧富、老若、性別、民族、国籍といったあらゆる区別を超えて共通する人間の尊厳の根拠です。

(1)アダム

「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)

神が最初に造った人間の名はアダムと言います。アダムはヘブル語の普通名詞で「人」という意味でもあります。それはアダムが土(アダマー)から造られたからです。たしかに人間が死んで土に埋めておけば土に帰ってしまいます。70キログラムの人の場合、水52.5kg,炭素12.5kg,カルシウム1.4kg,リン700g,硫黄175g、アルミニウム、鉄、銅など微量。価格にして1000円程度のものだそうです。私は今ちょうど千円くらいですが、あなたはおいくらでしょう。
 
(2)「われわれ」
 しかし、聖書にはもうひとつ人間の創造にかんする記事があります。

「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちにおいて、われわれに似せて。・・・(中略)」神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1章26−27節 直訳的試訳)

 旧約聖書の基調は、「われらの神、主は唯一である」です。ところが、不思議なことにその唯一の神が、創世記の最初の章で「われわれ」と自称なさいます。ユダヤ人たちはよくぞこの本文を維持して写本し続けてきたものだと敬意を表したいと思います。この「われわれ」を現代の聖書学者はたいてい「尊厳の複数」という古代の書き方の習慣であろうというようですが、私は「聖書はすべて神の霊感による」と信じる者として、旧約聖書箴言8章、新約聖書ヨハネ福音書とコロサイ書1章に徐々に明らかにされて行く啓示(漸進的啓示)に照らして、ここに三位一体の神の交わりの啓示の発端を見るのが適切であると考えます。
箴言8章22-31節を開きましょう。

「8:22 【主】は、その働きを始める前から、
 そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
8:24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、
 わたしはすでに生まれていた。
8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
8:26 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
8:27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
8:28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
8:29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、
 地の基を定められたとき、
8:30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。
 わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
8:31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

 ここで「わたし」と言っているのは「知恵」です。その「知恵」は人格であり、万物の創造の前から、神のかたわらに存在して、神のみこころにしたがって万物を創造したお方です。唯一の神のうちには、「われわれ」とおっしゃる父と子(イエス)と聖霊の人格の交わりがあるのです。神は孤高の孤立した神ではなく、愛の交わりの神であると教えているのです。主イエスは、最後の晩餐の席上、大祭司の祈りのなかで次のように祈られました。

ヨハネ福音書17章5節
「17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

 弟子のヨハネは、主イエスのこの祈りを聞きながら、「ああ、このお方は万物の創造の前から父なる神とともに愛の交わりをもっていらしたのだ」と悟ったのです。そして、御霊に導かれて福音書を記すに当たって、その冒頭に次のように書き出したのでした。
ヨハネ福音書の冒頭1章1,2節

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」

とあるとおりです。
 さらに、新約聖書コロサイ書1章15節によれば、創世記1章26,27節における「神のかたち(ヘブル語でツェレム、70人訳のギリシャ語でエイコーン)」というのは、御子イエスのことです。

「御子は、見えない神のかたち(エイコーン)であり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」

 この愛の交わりの神が、私たち人間を、もともと第二位格である御子(つまりイエス様)に似た者として私たち人間をお造りくださったのです。ですから、本来、私たち人間は、互いに辱めたり憎んだりするのでなく、互いに尊敬し互いに愛し合うべく造られているのです。私たち人間は憎みあうとき不幸になり体調も悪くなりますが、尊敬し愛し合うとき幸せになり体調もよくなります。私たちが愛し合うべきものとして造られている証拠です。
 このコロサイ書1章15節の光によって、創世記1章26,27節の「神のかたち」は御子であると理解することは、古代教父オリゲネス、エイレナイオス、アタナシオスが書物に書き記していることなのですが、その後、長年にわたって忘れ去られてきましたが、このことはきわめて重要な理解なので、私はなんとかしてキリスト教会のなかで回復したいと願っています。
 マザー・テレサがこんなことを話していました。「私は道端に倒れている人のうちにキリストを見ていたのです。」マザーは、イエス・キリストの「この小さい者たちにしてくれたのは、私にしてくれたのである」というマタイ25章末尾にある主イエスの言葉を大切にして、飢えた人、病気の人、貧しい人の中に常にイエスを見ていたのです。厳密な聖書釈義からすると、直接には「小さい者」とはキリストの名によって派遣された伝道者を意味すると考えられますが、すべての人間が御子に似た者として創造されたという事実から見ると根拠のあることです。


2.人間の悲惨と救い
(1)王座から転落した王
 このように、人間は、もともと「神のかたち」である御子イエスに似せて造られた、互いに尊重し合い、愛し合うべきものたちです。しかし、今、私たちの世界では、殺人事件のニュースやテロや詐欺のニュースなど聞かない日はありません。他人事ではありません。私たちの家庭のこと、職場や地域の人間関係を振り返っても、なにかしら不和があったり、ひそかなねたみや憎しみに汚されていたりしないでしょうか?どうも本来の素晴らしい姿を失っているといわざるを得ません。
 中国思想の中には、性善説を唱えた孟子性悪説を唱えた荀子という人がいます。それぞれの人間の本性は善であると主張する文章と、人間の本性は悪であると主張する文章の両方がそれなりの説得力を持っているというのが人間の不思議なところです。
 まるで、この謎に対して答えるかのように、パスカルは「人間の悲惨は、王座から転落した王の悲惨である」と言いました。つまり、本来人間は善であったが悪に落ちてしまった。だから、人間は「このようであるべきだ」という善に対する憧れをいだいてはいるけれども、現実には悪の中にもがいているのだということです。人間は理想と現実の間に引き裂かれています。

 「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険で ある。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)


(2)罪のありさま(ローマ1章から)
 人間は本来、「神のかたち」である御子に似た者として造られ、神を愛し、隣人を自分自身のように愛する者として成長すべきでした。けれども、そこから転落してしまったのです。その人間の悲惨について、使徒パウロは次のように述べています。

①人間は創造主を見失い、さまざまな被造物を神々に仕立ててこれにひざまずき、心を支配されてしまいます。それが偶像崇拝であると講演の前半で申し上げたとおりです。
 偶像崇拝の対象は人や動物だけではなく、科学を至高の価値とする科学主義という偶像崇拝。拝金主義はお金を神のように崇める偶像崇拝であり、国家主義は国家を神の位置に据える偶像崇拝です。科学もお金も国家も、人間が創造主を愛し隣人を愛して幸福に生きるために有益な道具でしょうが、その道具を目的にしてしまうと、人間を破壊してしまいます。

②諸々の対人的な罪とその中心にある利己主義
 人生のまことの中心である創造主を見失った人間は、さまざまな罪を犯すようになりました。パウロは言います。ローマ1:28−32
「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」
 さまざまの罪はありますが、すべての罪に共通している性質があります。それは利己主義ということです。自分の都合のよいように物事を解釈することです。私たちは自分がどれほど利己的な者であるかということを認めることが必要です。たとえば、あなたのおうちの客間に素敵な花瓶があったとしましょう。ところが、子どもに掃除をさせていたらガチャンと割ってしまいます。すると、「なんであなたは不注意なの!」と怒るでしょう。そのくせ、自分がうっかりその壷を割ってしまったら、「なんでこんなところに壷を置いてあるんでしょう。」とか「まあ、いいか」と自分を赦してしまいます。私たちは情けないほど利己的で不公正です。自分をはかる物差しと、他人をはかる物差しがちがっているのです。


3.救い

 このどうにもならない私たちを、その罪と滅びから救うために、神の御子イエスさまがこの世界に来てくださいました。もともと、人間は御子に似せて造られた存在でした。そこから転落してしまい不幸になってしまったのです。そこで、御子は私たちをかわいそうに思ってくださって、ご自身、天からくだって人となってこの世界に来てくださったのです。なぜなら、もともと御子こそが人間が創造されたモデル「神のかたち」でいらっしゃるからです。
 御子イエスは、第二のアダムつまり第二の人間の代表として、あの十字架の上で私たちの罪のすべてを背負って死んでくださいました。そして、三日目によみがえって、造り主である神と私たちの間の架け橋となってくださいました。

ヨハネ14:6
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることはありません。」

 私たちは御子の十字架が私の罪のためであったという事実を受け入れて、まず神との正常な関係を回復することが第一です。
 第二に、私たちは御子の足跡にしたがって歩んでゆきます。御子イエスは、唯一、真の人間でした。そして、「これこそほんとうの人間の生き方なのだ」という生き方を、この世にあって示してくださいました。私たちはアダム以来利己主義に汚され、また、神に背こうとする悪い性質をもっていますが、御子はただ一人罪のないお方として、人間とはこのように知り、このように感じ、このように行動するものなのだという模範を示されたのです。私たちは主イエスを見るときにこそ、そこにほんものの人間の姿を見るのです。私たちは、壊れてしまった人間ですから、隣人の喜びにねたみを感じたり、隣人の悲しむときに冷然としていたり、怒るべきときに怒らず、怒る必要もないことに怒りを覚えたりするのです。しかし、真の人である主イエスは、喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに喜び、怒るべきときに怒り、怒る必要のないときには怒らないお方でした。
 そのようにキリストに倣って生きるというのは窮屈なことでなく、自由になること、解放されていくことです。なぜなら、私たち人間はもともと御子に似た者として造られたものだからです。私たちは本来の姿に戻っていくことなので、それこそ自由への道です。家内が右手首を骨折して、今、リハビリに励んでいます、リハビリには忍耐が必要であり、痛みもともないます。しかし、徐々に本来の動きができるようになっていくことは自由になっていくことです。同じように、私たち人間は本来、御子に似た者として造られたのですが、罪によって壊れています。その状態から、本来の御子の似姿に帰ってゆくことは自由になることなのです。


まとめ.
 人間は本来、神の似姿として造られた尊い存在です。しかし、神に背を向けてしまったがために、惨めな状態に陥っています。三つのことを結論としたいと思います。
 第一に、人間は本来「神のかたち」において造られた素晴らしい存在であることをまず覚えたいと思います。私たちはお互いに「神のかたち」において造られた者として、尊敬しあうことが人間関係の基本です。
 第二に大事なことは、しかし、私たちは誰しも自己中心で利己的な性質が拭い去りがたくあるのだという現実をわきまえることです。ですから、個人生活で人間関係でトラブルがあったなら、まずは自分自身が自己中心だったのではないかと反省することが賢明です。
 第三に、政治制度についていえば、制度を設計するにあたって、権力が一人の総統や一つの党派にのみ集中させてはなりません。人間はどこまでも利己的なので、独裁は右であれ左であれ悲惨な結末を招きます。権力を制限する工夫が制度設計に必須です。その仕組みが立憲主義であり、三権分立の原理なのです。立憲主義をないがしろにし、三権分立をないがしろにしている政権は、黙示録13章にみる、サタンの支配下にある獣の国となってしまいます。
 そして第四に、人間創造のモデルである御子イエス・キリストは、そんな悲惨な状態に陥った私たち人間を救うために、人としての性質を帯びておよそ二千年前にこの世に来てくださいました。再び創造主とともに生きる道を備えてくださったのです。自分の罪をまず認め、主イエスを信じることによって神との関係を回復し、そして、主イエスの生き方にならって生きてゆきましょう。忍耐と痛みもともないますが、これこそ自由への道、解放への道です。

「3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:17,18)