苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの恥辱のきわみの死の意味

 きょう、HBIでキリストの職務について話をしました。なぜ、主イエスの死はあれほどに辱めをともなう死でなければならなかったのか、十分に表現できないのですが、少しメモしておきます。

「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」(マルコ15:16−20)


 高弟たちに取り囲まれて「自己灯明、自己灯明」と諭しながらの真理の教師としてのシャカの死。不当な死刑判決であっても、当時のだれもがしていたように牢番にわずかな金を握らせて亡命するよりも、「善く生きる」ことこそ大事なことだという信念に殉じて毒杯をあおったというソクラテスの哲学者らしい死。
 彼らの尊厳ある死に対して、主イエス・キリストの死はあまりにも恥辱に満ちていた。なぜ、主イエスの死はあれほどの辱めのきわみとしての死でなければならなかったのだろうか?それは、恐らく、善悪の知識の木から盗って、己が分を越えて神の領域を侵し、神の栄誉を汚した人間の傲慢という罪に対する罰が辱めであったからであろう。


 関連して思うこと。アンセルムスの満足説が「神の栄誉」ということを考えていることは、改革者の代償的贖罪説で改善され乗り越えられたように捕らえられがちだが、実は、アンセルムスはもっと重大なことを言っていたのではなかろうか。
 W.ニーが指摘していたことで注目すべきことがある。罪の中には、律法に照らしてあの罪、この罪といえるものがあるが、それらよりもはるかに重大な罪は、神の権威に対する反逆である。善悪の知識の木の実を食べた罪はそれであった。その種の罪は、つまり神の栄誉をわがものとしようとすることである。神はこの種の罪を、即座に、厳しく罰せられる。このことと、キリストの辱めの死には相応した関係があるのではなかろうか。

関連>「栄光を剥ぎ取られた王」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20121110/p1