苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

組織神学の目的

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20章27節)


 先週、神学校で組織神学のクラスの最初に少しだけお話したことです。

 すでに緒論において学ばれたことと思いますが、最初に少しだけ、組織神学をする目的についてお話します。

●「森を見て木を見る」ため
何事でも、正しい知識を得るためには、「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」ということを警戒しなければなりません。木を見て森を見る必要があり、森を見て木を見ることが必要です。「木から森へ」というのが釈義神学の方法であり、「森から木へ」というのが組織神学・聖書神学(G.ヴォス)の方法です。組織神学は論理的順序、聖書神学は歴史的順序でという違いがあります。

●近現代、組織神学が流行らない理由
 組織神学は聖書を一冊の書として見ます。それが可能なのは、「聖書はすべて神の霊感による」(2テモテ3:16)という前提があるからです。聖書は神が啓示した一つの書であり、そこには真理の体系が内在しているから、その体系を掘り出そうというのが、本来的な意味での組織神学の営みです。
 近現代、組織神学は流行らず、各書研究・釈義神学のみが学問的であるとして流行するようになりました。問題の根は理神論ないし無神論的な世界観の常識化のせいです。理神論者は、自然は閉じた系であって神がそれに介入すること(奇跡・啓示)を認めませんし、無神論者は自然がすべてであって自然を超える存在を認めません。近代においてスタンダードとされたカントの認識論は、理神論者アイザック・ニュートンの自然科学の哲学的基礎付けだといわれます。カントの認識論は理神論的・自然主義的世界観における認識論なのです。しかし、カントの認識論に立って聖書解釈をするのは、不適切です。なぜなら聖書の神は、理神論における死んだ神ではなく、啓示も行えば奇跡も行う生ける神であるからです。神は人間にわからない方法でなく、人間にわかる方法をもって啓示をなされますから、私たちは啓示されているかぎりにおいて神を知りうるのです。
 理神論的世界観と自然主義的世界観においては、聖書各巻は、ほかのあらゆる歴史上に出現した文書と同じように、ある文化的・歴史的背景の中から出現した文書であって、それ以上のものではないと考えられます。したがって、理神論・自然主義的世界観に立つ人々にとって、66の巻物全体に内在する真理の体系などというものを想定する組織神学はナンセンスだということになります。理神論・自然主義といった近代主義の立場において組織神学がなお意味があるとすれば、教会の伝統の中で築かれてきた教義という伝統的文化遺産としての意味しかないでしょう。本来の意味での組織神学は、聖書は神が与えた一冊の書であるという事実とそれに対する信仰があってこそ成り立つものです。
 17世紀という近代自然科学が成立した世紀においては、ケプラーガリレオパスカルといった自然科学者たちは創造主が被造物のうちに与えた秩序を発見することが、自分たちの仕事であるという認識を持っていました。しかし、18世紀という啓蒙主義の時代を経て、科学の世界では、近現代においては神に背を向けた自然主義的または理神論的世界観が常識化してしまいました。常識というのは恐ろしいもので、自分以外の立場はすべてナンセンスであると思い込んで、自分がどこに立っているのかすらわからなくなります。理神論者・自然主義者は、自分が理神論や自然主義に立っているという自覚すらなくなってしまい、その見方が唯一絶対だと思い込み、それ以外はナンセンスと断じるようになりました。
 自然科学を学問の理想とする見方は、聖書の学問にも影響を及ぼすことになりました。聖書を理解するいわゆる学問的方法は、理神論的ないし自然主義的な世界観を前提としたものになるのです。つまり、聖書の各巻は歴史的文化的所産以外の何者でもないという見方です。したがって、聖書各書の歴史文書資料としての研究とか、せいぜいパウロ神学とかマルコ神学と行った研究には意味があるけれど、聖書全体を一冊の啓示の書としてみる組織神学はナンセンスだということになります。理神論者・自然主義者(無神論者)が、そのように主張するのは筋が通っていますから、仕方ありません。しかし、もし有神論者を自任し、「聖書はすべて神の霊感による」と信仰告白する人が、組織神学を軽視することがあるとすれば、それは恥ずかしいことです。自分がどういう立場で聖書を読んでいるかということを自覚できていないからです。
 とはいえ、人間とは矛盾した存在で、聖書は誤りのない神のことばであるとは信じないリベラルな神学者たちも、どういうわけか大部の組織神学書を記しているのが矛盾といえば矛盾、不思議なところです。
 結論としていえば、「聖書はすべて神の霊感による」と告白している私どもとしては、「木から森へ」という方向と、「森から木へ」という方向の両方が大事だということをしっかりと覚えておきたいものです。

●組織神学の目的
1. バランスよく神と神の御旨を知るために
2. 諸真理の連関を知ることにより、より深く正確にこれを知るために
3. 究極的には、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するために
 特に「3」について。「知識は人を高ぶらせる」という危険を回避すること。善悪の知識の木の実を食べてしまった人間は、自律的理性を偶像化する傾向があります。警戒しなければなりません。知識を得ることは究極の目的ではなく、愛の実践という目的の手段です。