苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

血は土地を汚す

民数記35:33

あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。

 民数記35章前半は殺人者の扱いについて記される。同じように人を死にいたらしめても、過失致死のためには「のがれの町」が設定され、意図的殺害者については死刑が定められていた。こうした話題のなかで、上掲の不思議な一節が出てくる。土地に殺人の血が流されると、その時が汚されるという。すぐに思い出すのは、カインが弟アベルを殺害した血がその土地に流したために、その土地はのろわれて、土地がもはや力を生じなくなってしまったという出来事のことである(創世記4:11,12)。聖書によれば土地というものは単なる無機物ではない。それはいのちあるものであり、神の祝福によって作物を生じ、神ののろいによって力を生じなくなってしまう。特に殺人者の流した血は土地を汚してのろわれたものとしてしまう。
 土地、アレツについて聖書を読み直す必要があるように思う。これは、環境問題を考える上の基礎となるだろう。土地は実際いのちあるものである。1グラムの土には100万から1000万もの微生物が生息しているという。微生物が有用な働きをしてこそ、よい作物を得ることができるということを、信州の農村部に住み、少しばかりの土地を耕すようになって知った。この事実と、聖書のいう土地の祝福とのろいは関係しているのだろうか?考え続けてゆきたい。
 もう一つは、その汚された土地を贖うには、血を流した者の血をもってするほかないということばである。神の御子、主イエスがわれわれのためにゴルゴタで流された血潮は大地を贖い、この地球を贖ったゆえに、後の日に新しい天とともに新しい地が到来するということなのだろうか。(新横浜の近く中川にて)